●米国の街は意外と冷静そう
いよいよ、『そのとき』が迫ってきた。
そのとき、とは言うまでもなく2000年1月1日、Y2Kバグが炸裂する日のことだ。Y2Kに関しては、いつも米国が騒ぎの元だった。一時期はY2K対策のために自家発電機や保存食品や銃の売れ行きが伸びているなどと盛んに報道されたし、米政府も国民に向けて、食料・水の数日分の備蓄などを呼びかけるガイドラインを早々に出した。最近になっても関連記事は連日、新聞紙上にあるし、四大ネットTV局のひとつNBCでもY2Kをテーマにしたスペシャルドラマを放映した。運命の日が刻々と迫るなか、米国はますますY2Kに過敏になっているように見える。
だが、実際のところ、コンピュータ業界などに関係のない、普通の人々はどうしているのか。そこで、シアトルやロサンゼルスに住む知人数人に聞いてみた。ところが、彼らは意外と冷静だった。それどころか、ほとんど対策を考えていない様子なのだ。彼らによれば、街も表面は普段どおりのホリデーシーズンだという。例えば政府のガイドラインにしてもポスターやパンフレット類を見たことはないし、スーパーでサバイバルキットなどのセールがあるわけでもないという。
理由はいろいろ考えられる。まず、コンピュータ業界の中にいる人にはY2Kの深刻度がわかっているが、外の人は米国でもやっぱりそんなによく知らないということ。そのため、日本より前から騒ぎがあって、もう耳慣れてしまったのと、政府や関係機関から、大事はないとPRが繰り返されたのとで、落ち着いているのかも知れない。それから米国では、こういう場合、騒ぐ人は騒いでシェルターだ自家発電機だと突っ走るが、逆に動じない人も多い。ひとつの方向に大衆が動くことはあるのだが、日本と違い、反対方向への振り子も必ずあるのだ。Y2Kでも、危険が騒がれたあとだからこそ、多くの人は浮き足立たないようにしているのかも知れない。
●「銀行の残高証明は必ず取るつもり」と
でも人々はまったく手放しかというとそうではない。知人が皆、これだけはするつもりと言っていたのは、31日に銀行取引の残高証明を紙でとっておくことだ。新聞のY2K準備のアドバイス記事でも、残高証明の必要はクローズアップされていた。
この重要性は、米国で生活したことがあるとわかる。銀行の通帳のシステムが日本と比べて何だか頼りないからだ。
日本ではATMでキャッシュを下ろしても、通帳を持参すればその場でその取引が印字される。だから自分の預金は確かに銀行に保管され、銀行もそれを把握してくれているんだという安心感がある。
ところが、米国には日本のような立派な自動記帳式の預金通帳がない。くれるとしても、メモ帳のような簡単な通帳だけ。もちろんコンピュータによる自動通帳記入なんて便利なサービスはない。じゃあどうするのかというと、ふだんはATMを使うと出てくるペラペラの紙を取っておくか、窓口なら残高を通帳に書いて判を押してもらうか、コンピュータの出力紙をもらってやはりそれを自分で取っておくしかないのだ。
待っていれば月に1回は取引明細や残高の書かれたステートメントが送られてくる。だが、日本のシステムに慣れていると、自分の預金がきちんと存在しているのか本当に不安になる。いや、米国人にとっても多少は不安なはずだ。だからこそ、自分の口座の残高などを好きなときに目で確かめられるインターネットバンキングが、日本より盛んになったのだろう。また、Y2Kに備えて残高や取引の証明を紙で取っておけというのも、こうしたシステムのためだ。
●Y2Kがかきたてる都市への不安
もっとも、じつを言えば、これは人々が思っているほど重要な準備ではないかも知れない。客へのデータの見せ方が不安を感じさせるというだけのことで、米国の銀行のコンピュータシステムそのものは脆弱とは思えない。むしろ、一人の知人が言っていたもうひとつの「対策」のほうが、米国人の不安の核心をついている。
それは、知人が、自分は田舎に帰るから安心だと言っていたことだ。家族がいるふるさとだからというだけでなく、田舎の小さな町のほうがコンピュータ問題はシンプルだろうからと言うのだ。だが本当の安心感の理由は、米国では平原の中に半孤立化したような小さな町が多く、そこにまでは大都市が抱える不安が押し寄せて来ないからだろう。
米国の大都市では、本当に何が起きるかわからない。例えば米国の大都市では、暴動が簡単に起きる。人種や所得の格差による摩擦が日本よりはるかに大きいからだ。差別されている人々にはいつもストレスが貯め込まれている。実際にサンフランシスコの大地震でも暴動は起きたし、ロドニー・キング殴打事件(黒人のキング氏をロサンゼルス市警がめった打ちしたのが明るみに出た事件)でも、直接関係のないはずの韓国人商店が荒らされるなどの暴動が広がった。だから、停電などのY2Kのトラブルをきっかけに、暴動が起きる可能性は十分にある。
そもそも、大都市の一部地域に押し込められた貧しい人々の間に、Y2Kの情報がどれほど行き渡っているかも疑問だ。先に書いたように、政府のガイドラインなどのお知らせが巷に行き渡っている様子はなく、Y2Kについて人々が知る手段はTVか新聞が主である。ということは自分で報道を追っていなければ、Y2Kについてきちんと知るチャンスはほとんどないわけだ。そんな中でNBCのパニックドラマを見た人が、恐怖だけをあおられる可能性だって、なくはない。
それに、大晦日はもともと新年のカウントダウンパーティなどで人が集まり騒ぐ時だし、2000年は宗教上の終末思想と結びつき、カルトが何か起こすという不安もささやかれている。Y2Kのほかにも騒ぎが起きやすい状況はあるわけだ。
「田舎へ帰る」というのは、水や銃を買うより現実的なY2K対策なのかもしれない。
[Text by 後藤貴子]