最近でこそあまり口にしなくなったが、昨年前半までMicrosoftのビル・ゲイツ会長兼CEOは、ことあるごとに「Wallet PC(ウォレットPC)」について語っていた。これは,文字通りサイフ(Wallet)と同じポケットに入るサイズの近未来情報家電。PIM機能,無線コミュニケーション機能,Webブラウズ機能,さらに赤外線通信による電子マネーの転送や身分証明などの機能も提供するというシロモノだ。ゲイツ氏のビジョンでは、近未来には誰もがこれを持ち歩くようなありふれたものになるという。
しかし、これは別にゲイツ氏の独創的なアイデアでもなんでもない。それどころか、PCなんて登場するはるか以前から、SF映画や小説には、こういうポケットサイズの万能コンピュータが登場していた。SFの中では、近未来のコンピュータと言えば、たいていが携帯型で、それもウェアラブルだ。ところが、現実はというと、大きくてかさばる不格好なノートPCをごく一部のユーザーが抱えて歩いているだけ。これまでは、大きなギャップがあったわけだ。
でも、実際の話、こうした携帯型コンピューティングデバイスの初歩的なものを実現できる要素技術は、もうかなり揃いつつある。低消費電力で極めて高性能なMPUコア、システムオンチップを実現できる高い集積度の半導体技術、効率の高いバッテリ、無線データ通信インフラ。あと足りないのは……、製品戦略だ。というわけで、ポケットサイズを視野に入れた携帯コンピューティングデバイスの、激しい主導権争いが始まりつつある。
もし、本当にポケットサイズでユーザーニーズをうまく汲み取ったコンピューティングデバイスが登場したら、それはWindows PCとの互換性なんてなくてもあっと言う間に市場をさらってしまうかも知れない。しかも、企業でもパーソナルでも、1人1台普及する可能性もある。オオ化けするかもしれない市場だけに、メーカーは真剣だ。
●Windows CEは2.0でポケットサイズのデバイスを目指す
この方向に踏み出した勢力のひとつは、先週、日本でもWindows CEをデビューさせたMicrosoftだ。ただ、この日本語版Windows CE 1.01発表はちょっと気の毒だった。というのは、Windows CEは次期バージョン2.0のOEM向けの提供が迫っているのを業界では誰もが知っているため、バージョン1.xxにはいまひとつ関心が高まらなかったからだ。
Microsoftは、次期バージョン2.0でWindows CE搭載デバイスのバラエティを大きく広げる。「Windows CE 1.01は開発期間の制約から機能が限定されており、画面解像度や周辺機器に制約があったが、2.0ではそれが柔軟になる」(Microsoftコンシューマアプリケーション事業部、ハレル・コデッシュ、ゼネラルマネージャ)という。Windows CE 2.0では、ハンドヘルドPC(HPC)でより画面解像度の高い製品やカラー製品、インターネットTVなども出るが、それ以外の機器にもWindows CEが広まる。そのひとつが、より小さなモバイルコンピューティングデバイスだ。Microsoftのクレイグ・マンディ上級副社長は、Windows World Expo Tokyo 97で基調講演で、「年末までにポケットに入るようなパーソナルポータブル機器が登場する」と予告した。
実際、日本国内でもかなり早い時期から、MicrosoftがWindows CE組み込みの携帯電話(またはPHS)端末のプロジェクト「Gryphon(グリフォン)」に関して日本メーカーと接触を取っていたという。また、Windows CEが対応するあるMPUのメーカーでは、HPCよりむしろ携帯電話やインターネット電話の引き合いの方がずっと多いと語っていた。すでに、メーカーサイドでは、Windows CEでより小型のPDAや無線データ通信端末を実現しようという動きは活発化しているのだ。
●Windows CEのオルタナティブになりうる規格が登場
しかし、こうしたより小さなモバイルコンピューティングデバイスが、PCとはまったく別な市場を築くとなれば、Windows CEがうたうWindowsとの連携やWin32 APIの互換性が意味をどれだけ持つかわからない。それなら、MicrosoftにOSやハードウェアのスペックを縛られないで、独自性の強い製品を出すアプローチがあると考えるメーカーがいても不思議ではない。その流れを象徴するのが、Windows CE日本語版発表直前に発表された、モバイル版NC (Network Computer)規格「Mobile Network Computer Reference Specification (MNCRS)」だ。
「うっ、またNCか」と思った人もいるかも知れない。しかし、このMNCRSというのは、デスクトップのNCとはかなり狙いも顔ぶれも違う。NCというワクには入っているが、デスクトップ、セットトップボックス(STB)に続く、3つ目の新しい展開だ。
MNCRSの発表内容に関しては、PC Watchのニュースで詳しく報じられているので、このコラムでは規格化の内容などは触れない。ドラフトやホワイトペーパーはこちらにアップされている。
さて、このMNCRSも、やはりノートやハンドヘルドだけでなく、もう少し小さなポケットサイズのデバイスや無線データ端末も狙っている。発表会にIBM代表として出席した米IBMのNC事業担当副社長フィル・ヘスター氏によると、やはりポケットに入るようなサイズのデバイスが年内には登場する見込みだという。また、日本アイ・ビー・エムの担当者は、IBMも開発に協力した京セラのDataScopeを引き合いに出し、PHSなどと一体化したPDAタイプのデバイスがこの規格で登場するという見通しを示した。この手のデバイスでは、Windows CEと真っ向からぶつかる構えだ。
このMNCRSは、スポンサー企業の顔ぶれがなかなか興味深い。IBM、米Sun microsystems社、米Netscape Communications社、米Network Computer Inc(NCI)まではNC推進の常連だし、米Apple Computer社はNewtonがある(分社はするが)からいいとして、東芝、日立製作所、富士通、三菱電機といった日本のPC/家電メーカーが同格のスポンサーとして名前を連ねている。しかも、メインの発表の場は米国でなく日本。日本メーカーとIBMの日本サイドなどが中心となって、日本を舞台に推進を始めたという、まったく日本先導の話なのだ。
●なぜ日本の大手メーカーがモバイルNCでは積極的なのか
デスクトップNCでは、これまで製造に乗り気にならなかった大手日本メーカーが、なぜモバイルNCではその気になっているのだろう。とくに、「米国ではWindows CEマシンを出して、Windows CEのサポーターのはずの日立製作所はどうなってるんだ!?」というのは誰しも感じる疑問だ。
それに対して、日立製作所の情報事業本部事業企画本の池田俊明本部長は、「Windows CEは、半導体ビジネスのなかでSHというMPUの展開の一環として考えている。Windows CEは、Windows NTやWindows 95とともにひとつのMicrosoftの世界を作るもの。それに対し、(日立は)システムとしてはオープン系サーバーとともにNCを推進して行く」と発表会で説明した。つまり、Microsoftの世界は繁栄しているから、そこでのビジネスとしてWindows CEはサポートするが、企業の戦略としてはオープンスタンダードの世界で独自性を出しやすいモバイルNCをやりたいと言っているようだ。
日本メーカーのなかでMNCRS規格のモバイルNCを出すことを時期を含めて明言しているのは、三菱電機と東芝の2社だ。三菱電機は、PC系ではそれほど成功していないだけに身は軽く、しかもJavaベースのNCは以前から推進してきただけに疑問はない。サプライズは、Windows CEマシン開発のウワサがある東芝だ。東芝は「MSNRCにもとずきJavaOSを搭載するモバイルコンピューターを秋に出すように開発中」という。
しかし、日本メーカーは、各社ともモバイルNCを推進するからPCはやめるというわけではない。「情報創造型のPCと情報消費型のNCは相補的に発展すると思う」(三菱電機、伊藤利明専務)というのがおそらく各社に共通した認識だろう。今回のMNCRSのスポンサーメーカーの日本企業は、PCはPCとしてビジネスをするが、Windows 95/NTでカバーできないもっと小さなデバイスでは、Windows CEとは別な展開をしたいと考えているフシがある。つまり、デスクトップやフル機能のノートパソコン(これは実質的には省スペースデスクトップとして使われている)ではPCを売っても、モバイルではモバイルNCを売るという展開を考えていると思われることだ。これは、ユーザーも、デスクトップではWindows PCを使っていても、外へ出る時にポケットに入れるのはモバイルNCという形になることを意味している。そうなると、デスクトップでのNC対PC(あるいはWindows Terminal)という対立とはまったく別なところでの展開となる。
●なぜWindows CEではないのか
では、このモバイルNCの共通規格の、Windows CEに対しての利点はなにか。まず、根本的に異なるのは、モバイルNCは共通化部分が限定されていて、あとは各メーカーが自由にインプリメンテーションできる点だ。フィル・ヘスター氏は、「この仕様は(ソフトの部分は)すべてAPIベースで実現する。ハードウェアベンダーは、APIさえサポートすればMPUもOSも自由に選択できる」とその利点を強調する。
MPUやOSといったプラットフォームからニュートラルにして、WebスタンダードやJavaなどをベースに互換性を確保する形にパラダイムをシフトさせるというのは、モバイルだけでなくNCに共通するコンセプトだ。しかし、このコンセプトはデスクトップ市場では、すでにスタンダードと化しているWindowsとの互換性で不安も生んだ。ところが、モバイルの市場では、ハードディスクとメモリと高速MPUが必要で、バッテリライフも持たないPCは未だスタンダードではない。しかも、モバイルでは、デバイスごとに求められる機能が異なり、デスクトップアプリとの互換性はそれほど確実に求められているわけではない。それなら、最適なMPUや最適なサイズと機能のソフトを搭載したデバイスを、各メーカーが自分たちの技術の得意な部分を活かして自由に開発できるNCというのが、結構魅力があるというわけだ。
それに対して、Windows CEはMicrosoftに開発を任せられるので楽だが、OSはMicrosoftに握られ、しかもハードウェアのスペックすらある程度Microsoftに縛られる。たとえば、NECは今回Windows CE版Mobile Gearを出したが、従来のMobile Gearで好評だったあの使いやすい大きめのキーボードは最初のバージョンでは諦めなくてはならなかった。NECでは、その原因がWindows CEのサポートする画面解像度にあったと明かしている。勝手にWindows CEのディスプレイドライバを拡張して、幅広いディスプレイとキーボードを搭載することはできなかったということだ。メーカーのなかには、こうしたMicrosoftの制約が窮屈と感じるところも多いに違いない。もっと言えば、デスクトップPCのように、Microsoftの決めたワクの中で、差別化があまりできなくなって価格競争になり、ビジネスにならなくなってしまうことを警戒しているわけだ。
もちろん、それなら別につるまなくても、各社がそれぞれ独自にやるというテもあるのだが、そうするとさすがにブレイクするのが難しい。というか、これまで各社がそれぞれ異なるアプローチで何度かトライして、ことごとく失敗してきた。たとえば、東芝の「XTEND」なんて、誰か憶えてます? また、今後ネットワーク対応がモバイルでも必須となると、ネットワークとのアクセスやデータの同期、ネットワークアプリケーションとの連携といった複雑な要素もある。それなら、ある程度の共通化をした方が有利と判断したのだろう。
つまり、この話は、もともとNC以前からモバイルで新しいデバイスを作りたいというニーズがハードウェアメーカーの側にあった。それなのに「現状では業界標準がない、あるいは部分的なものに留まっている」(東芝、奥原弘夫氏)状態だった。しかも、Windows CEには乗りたくない。そこで、それなら、モバイルNCの形で、互いに利益になる業界標準を作ろうという展開になった、と考えるのだ妥当だろう。
●まだペーパーだけのMNCRS
もっとも、今回の発表は規格を作るという発表で、実際には概要しか明かしていない。スペックは、今後90日くらいで決定する予定だ。つまり、まだペーパーの上のドラフトであり、具体的な話として展開するにはもう少し時間がかかるわけだ。
マイクロソフトの古川亨会長は、Windows CE日本語版発表会で、このポイントを突いた。
「あの発表の目的のひとつは話題作り。明らかに、今日Windows CEの発表会があると知っていてアドバルーンを上げようと突然決めた。しかし、我々は話題作りのためだけに発表をするようなことはしない。あちらは紙の上でスペックを決めただけだが、こちらは製品を発表した」
これは確かに正論だ。MNCRSの関係者は、今年の初めにキックオフしたが詳細を詰めたのが5~6月で、今回の発表も直前になって決めたと語っている。このスケジュールを聞く限り、Windows CEを意識したことは間違いがないだろう。しかし、だからといってMicrosoftが製品ベースの発表しかしない純朴な企業というわけではない。たとえば、昨年はSunがJavaStationの製品発表をする前日に、MicrosoftはNetPCのスペックのペーパーの上だけのドラフトを発表しているのだ。確かに、NetPCの発表はカンファレンスの中であり、NetPCのためだけの発表をしたわけではないが、外野から見れば五十歩百歩という気がしないでもない。
●1メーカー主導かメーカー連合か
Microsoftは、これまでもPCというワクの外では苦戦をしてきた。その一例は、OA機器を連携させて統合化されたデジタルオフィスを実現するはずだった「At Work」構想だ。この構想はメーカーの支持を十分得ることができず、事実上消滅してしまった。今回の新市場は、携帯デバイス(Windows CEのカバーする市場はこれだけではない)だが、ここでWindows CEがどれだけ利点をアピールできるかは、まだわからない。果たしてメーカーはWin32 APIやWindowsブランドを求めるのかどうか。今回の展開を見る限り、まだ順風満帆というわけではないことがわかる。
あるハードウェアメーカーによると、At Workの時に、問題になったのは、MicrosoftがOA機器に搭載するOSまで規定しようとしたことだったという。それに対して、IBMが中心となって数年前から推進しているOA機器連携構想「Salutation」は、OSやMPUは規定せずにインターフェイスだけを決める形で、メーカー間の調整を取りながらじょじょにだが進んでいる。なんだか今回の話にちょっと似ている部分がある。1メーカーがソフトや規格を主導するアプローチの場合は、成功すればドーンと市場を推進できるし、メーカーの支持を得られないと大コケする可能性がある。一方、メーカー連合でインターフェイスだけを決めようと言う展開の場合は、調整に時間がかかったり規格化が十分でなかったりして、時期を逃す可能性がある。
はたして、今回はどうなるのか。えっ、最後に残るのは、現状でいちばん洗練されていて実績のあるシャープだって?
そう、シャープがうまくやりさえすれば、その可能性もある。
□「Network computer inddustry leaders release open standards for Mobile NC」
http://www.internet.ibm.com/computers/networkstation/os/open.html
□参考記事
【6/23】IBMなど11社がモバイル用NCの共通規格「MNCRS」で合意
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970623/mobilenc.htm
('97/7/7)
[Reported by 後藤 弘茂]