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天神さまの細道じゃ




 日本文化資産の高精細複製制作には、その時代のテクノロジーが最大限に生かされている。そこには、最新鋭のデバイス技術のみならず、先祖代々継承されてきた日本文化独特の職人芸が不可欠だ。

●絵巻全巻を初公開

 福岡・太宰府の九州国立博物館で、西日本鉄道創立100周年記念・九州国立博物館開館3周年記念展覧会として「『 国宝 天神さま 』- 菅原道真の時代と天満宮の至宝 -」が開催されている。11月30日までの開催だが、オープニングから約1カ月が経過した時点で約5万人の来場者を記録し好評を博しているという。

 この展覧会に、以前、ここで紹介した日本ヒューレット・パッカード(日本HP)が制作し、京都・北野天満宮に奉納した同宮所蔵の国宝「北野天神縁起絵巻承久本」の高精細複製「平成記録本」が出展されている。2週間という限定期間の展示だが、なんといっても総延長100mにもおよぶ長尺絵巻全巻の公開だ。広い部屋を丸ごと一部屋割り当てての大規模な展示となっている。

 展覧会には、門外不出であるはずのオリジナル絵巻も展示されている。これは、天満宮が所蔵する承久元年(1219)に作成(藤原信實画)された承久本と呼ばれるもので、国宝に指定されている。ただし、展示は9巻あるうちの2巻のみで、ほんの一部を垣間見られるだけである。

 だが、そこに展開されるさまざまなモチーフが、琳派等の表現に使われていることは誰でも知っている。その絵巻を全巻通して見てみたいという欲求が出てくるのは当然だ。だが、オリジナルを全巻公開するというのは、痛み等のことを考えると難しい。そこで、HP制作の平成本に白羽の矢が立ったわけだ。日本HPが奉納した高精細複製は承久本の複製として「承久本を平成20年に持ちうる最高の技術を使って記録した本」として、「平成記録本」という名称が与えられている。

●平成記録本が明かす様々な謎

 平成記録本の制作を監修した須賀みほ氏(東京芸術大学美術学部附属古美術研究施設)は、「多くの人たちにほんものを身近に体験してもらうと同時に、現状の技術を生かし、文化財を保存するという点で、学術的な意義も大きい」とコメントする。高精細な複製を、じっくりと観察することで、使われている顔料の性質を解明したりすることができるのだそうだ。

「実際、画像を見て、今まで見いだせなかったものも見つかっています。絵巻は途中で終わっていますが、どうしてそうなのか、推定にすぎなかったことが、こうじゃないかと確信にかえられるような題材を見つけることができるんです」(須賀氏)。

 絵巻の9巻は、他の巻の裏に表装されていたもので、下書き部分であるとされている。だが、絵巻を痛めないために薄暗いところで短時間しか観察できない状況では、どのようになっているのか、今まではよくわからなかったのだそうだ。ところが、今回の複製制作のための撮影によって、通常の環境かつものすごい精度で拡大して観察できるようになり、下書きに関しては最後まで完結していたことが証明できるかもしれないということだった。つまり、絵巻は、最初、全部の下書きが書かれ、それから色をつけ始めたものの、何らかの理由でそれが中断されたということがわかってくるらしい。

 須賀氏は、高精細複製を作ることで、データが流出してしまう可能性があるという危険性を十分に考慮しなければならないと念を押しながらも、それによって、作品の価値が下がってしまうことはないと考えているそうだ。複製は実物の身代わりになってくれるものであり、実物ではできない効果的な展示ができるというメリットを生む。

 「西洋の作品の多くは、壁に掛ければそれで終わりですが、日本の作品というのは、なかなかそうはいかないんです。今回の絵巻では、複製の全巻展示というウルトラCを実現することができ、文化財に対する理解を深めることの大きな一歩となりました」(須賀氏)。

 須賀氏はデジタルアーカイブとしての高精細複製が、インクジェットプリンタで印刷されていることにも意味を見いだす。数多くの絵巻の実物を見てきた氏が見ても、インクジェットプリンタの顔料インクのツブ感、マテリアル感は、日本の芸術に適しているとおっしゃるのだ。

 もともと絵巻は、紙芝居のようなもので、言葉を誰かが読み、絵を繰っていったものだという。だが、絵と言葉が別ということは、美術史の中で、ほとんど追求されてこなかったらしい。だが、ことばの縦幅と絵の縦幅が違っていたりすることから、どうやら、別のものであるといったこともわかってくるそうだ。

 実際、展示に先だっての内覧会では、九州国立博物館研究員の松川博一氏が、絵巻に登場する代表的なシーンを、絵巻に沿って歩きながら1つずつ解説してくださった。まさに紙芝居であり、自分が絵巻の前を動きながら、そのストーリーをきいていくことができる貴重な体験だった。これは、目の前でスクロールするモニタ上の絵巻では、ちょっと得られない経験だ。

 「全巻通してみると、受ける印象も違うはずですよ。オリジナルにあるオーラのようなものはないかもしれませんが、それを比べることで、そのオーラの存在を知っていただけるということもあるかもしれません。

 これだけ高精細な複製は、絵画史の研究をする方たちにとっても財産です。今後も、実物の展示とは別の再現文化財として、できる限りの技術や素材へのこだわりで、文化という形のないものを保存していく取り組みに努力していきたいと思っています」(松川氏)。

●デジタルが取り持つ縁

 以前にも書いたが承久本そのものも、消失した絵巻の複製だ。江戸時代の後期に古文書を調査し、建久5年(1195)、すなわち、鎌倉幕府が開かれて3年目には絵巻が存在したことがわかっている。だが、平成記録本によって、今までに立てた仮説の証明ができるようになれば、承久本の原型も想像していけるかもしれない(須賀氏)ということだった。さらに、室町時代の絵などもデジタルアーカイブ化していくことで、無名の絵の中に、重要な要素が見つかるかもしれず、さまざまな謎が解けていく可能性もあるらしい。

 デジタルなアーカイブは、現代技術を極めたデジタル職人たちの職人芸によって撮影され、レタッチされ、カラーマッチングされ、職人によって漉かれた伝統和紙に出力、それが表装職人たちの手にゆだねられる。どれが欠けても平成記録本は成立しない。

 美術史研究と信仰、そして新旧の職人芸は対局の位置関係にあるかもしれないが、デジタルアーカイブのような存在がその間を取り持ち、誰もが納得のいく恩恵が得られるというのは素晴らしいことではないか。

□九州国立博物館のホームページ
http://www.kyuhaku.jp/

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(2008年10月24日)

[Reported by 山田祥平]


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