家具や調度、あるいは宝飾品などとは違い、古いハイテク機器にはさほど価値を見いだせない。初代IBM PCやLisaといった例外はあるとしても、一般人には関係のない話だ。中古市場もあるが、それは再利用が主たる目的だ。骨董品にはなりえない。 ●椅子を捨て椅子を買う 昨秋に父が逝き、何かメモリアルになるものをと思って椅子を購入した。これまで使ってきた椅子は20年以上使ったものなので相当くたびれていたが、愛着もあるし、この椅子でこなした仕事の量を考えると、なかなか捨てることはできなかったのだが、思い切ることにした。今回購入した椅子は、これから先、20年以上使うことになるだろう。何歳までこの椅子に座って仕事をするのかわからないが、もしかしたら、死ぬまでこの椅子を使い続けることになるかもしれない。父の形見だと思って愛用しようと思う。 ぼくは、学校時代に、生まれて初めてもらった原稿料で万年筆を買った。いくらだったか思い出せないのだが、モンブランの「No149」というモデルで、もらった原稿料のほとんどが無くなったように記憶している。あれから四半世紀以上が経過した今も、その万年筆は手元にある。さすがに、このペンで原稿を書くことはなくなったが、もっとも好きなブルーブラックのインクを入れてあり、年に一度くらいは内部を掃除する。インク壺を購入しても、それを使い切ることはない。ただ、使わなくてもインクは劣化するので、やはり年に一度くらいは新しいインクを購入し、まだインクのたっぷり残っている古いインク壺は処分する。なにしろ、この万年筆を使うのは、書類に署名をするときくらいだからだ。でも、そのときの気分がとても心地よい。 四半世紀という長い時間が経過しても、万年筆は万年筆として、購入当時に得られた機能は失われず、いや、長年の使用によって、購入当時よりもなめらかな書き味を提供してくれる。たぶん、このままぼくが死ぬまで万年筆として機能し続けてくれるだろう。そして、手に取るたびに、ああ、これはあのときの記念に買ったペンなのだと、昔を思い出すのである。 ●道具としてのライフタイム ハイテク機器に目を移してみよう。今、手元で稼働しているPCのうち、もっとも古いものは、2004年春の製品で、OSはWindows XPだった。モバイルPentium 4 3.2GHz搭載のこのPCは、メーカー製だが素直な構成なので、β期間の間、Vistaの評価に活躍してくれた。ただ、今は、ほとんど電源を入れることがなくなっている。現時点で4年が経過しているわけだが、愛着があるかといえばなくもないのだが、もう一度、現役に戻すことはなさそうだ。 Vista評価のために、何度も何度もフォーマットとインストールを繰り返した。だから、HDDの中には、特に重要なデータは入っていない。でも、使い道によっては、まだまだ現役でいられるであろうスペックだ。捨てるには忍びない。 一方、最近は、携帯電話の買い換えに伴って、古い端末をそのまま手元に残し、たまに、内部に保存された写真やメールを見て楽しむというユーザーが増えているそうだ。新しい端末に全部移してしまえばよいのにと思うのだが、そういうものでもないらしい。データには、そのデータに似合った場所があり、似合った表示があるということだろうか。確かに、10年以上前のデジカメや、初期の携帯電話で撮影した画像は、今使っている高解像度液晶で見てもつまらない。 人それぞれだとは思うが、こうした機器のライフタイムは、ほぼ5年程度ではないかと思っている。5年前の機器は、たとえ、正常に稼働したとしても、やはり古さを感じ、性能的にも不満を感じる。たまたまPCは、Windows XPが現役でいた時期が長かったために、ライフサイクルが延伸され、4~5年前の機器でも生きながらえているが、四半世紀を超えて実用に耐える椅子や万年筆のようなわけにはいかない。 ●希薄になる愛着 機器に関しては、数年のライフサイクルを繰り返しながら、新しい世代のものに入れ替わっていく。データも、古い機器で表示したいなどとは言っていられるはずもなく、なんらかのストレージにコピーして新しい機器に移行する。机の引き出しにしまっておけるコンパクトな携帯電話端末ならともかく、ある程度のボリュームがあるPCは、やっぱり邪魔になる。結局、重要なのはデータなのだ。 もし、今後、仮想化技術が一般的なものになって、誰もが気軽に使えるようになったら、たとえば、×年前の愛機を最新の環境内に再現するようなことが行なわれるようになるかもしれない。PCの買い換え時に、過去の環境をそっくり吸い上げ、別の環境内に移行するわけだ。以前の環境が必要になったときは、マウス操作だけで瞬時に呼び出せる。 もっと極端には、環境そのものを預かるサービスがあり、データを含めて手元には何も持たないことが当たり前になれば、機器類への愛着はさらに希薄になっていくかもしれない。 そうじゃないだろうという声が聞こえそうだ。携帯電話ならボディについたキズの1つ1つ、そして、ボタンの押し具合。特定のボタンが接触不良を起こしていて、文字入力にイライラした経験などを含めて愛着だからだ。 ぼくの通っていた小学校は、現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」のヒロインの出身校という設定なのだが、その校舎が今年取り壊されることになったという。すでに別の場所に新校舎が完成し、春から稼働することになっているようだ。帰省時に古い校舎を訪ね、外から教室をのぞいてきたが、ぼくが通っていた当時とは入れ替わっているに決まっているにもかかわらず、机や椅子に妙な懐かしさを感じた。まして、校舎は、あのころのままだ。Webサイトも用意されていて懐かしさをあおる。6年間という限られた期間を過ごしたにすぎないが、「器」への愛着というのも認めなければなるまい。 ●考えたくない未来 ぼくらの生活が、ハイテク機器への依存度を高めるに従い、モノへの愛着や郷愁感のようなものはどんどん希薄になっていく。昔は、ハイテク機器などなくて、他のものがその機能を代替していただけで、ハイテク機器への愛着などどうでもいいのかもしれない。それに、椅子や机が提供する機能は、今も昔も変わらず、慣れ親しんだ道具への愛着は今もある。最初はなかったのだから、それが失われてもかまわないのかもしれない。 PCは常に新しい機能を追加し、拡張しながら進化してきた。処理性能の向上もその1つだ。でも、ここ数年、新たにできることが増えてはいない。5年前のPCと最新のPCを比べたときに、できることの違いはそんなにない。XPがVistaになり、ユーザーエクスペリエンスは向上したかもしれないが、できることが新たに増えたわけではない。 今後、この傾向が続き、5年先になってもできることが増えていなかったとしたら、PCもまた、万年筆や椅子、机のように、普遍的な道具になるのだろうか。ちょっと考えたくない未来ではある。
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(2008年2月8日)
[Reported by 山田祥平]
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