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「ダリです。ただいま留守にしています」




 デジタルイメージングによる複製技術は、美術館における展覧会という、きわめてオリジナル性が求められる場にも、ちょっとした変革をもたらそうとしている。写真がネガをオリジナルとしているものの、そこから作られた複数のプリントもまたオリジナルであるのと同様に、これからは、油彩絵画のような手法による芸術にも、変革が及ぶようになるかもしれない。

●「ヴィーナスの夢」をHPプリンタが出力

 大阪・天保山のサントリーミュージアムで、サルバドール・ダリ(1904-1989)の生誕100周年を記念する展覧会「ダリ展 創造する多面体」が始まった。2006年は、東京でも同様の展覧会が人気を博したが、今回の展覧会は、生誕100年記念プロジェクトの一環としてスペインのダリ財団、アメリカのダリ美術館の全面協力のもとに企画され、大阪の後は、名古屋、札幌を巡回する。

 展覧会では、ダリの油彩画約40点に加え、ダリ財団秘蔵の手稿やドローイングを交えた約180点の作品が展示される。そして、そのうちの1点として、ダリが'39年のニューヨーク万国博覧会のために制作した油彩画「ヴィーナスの夢」が含まれる。

 展覧会は3月8日から5月6日まで、約2カ月の開催だが、初日を含む最初の1カ月間は、その複製が展示されている。こうした企画展には、内外の美術館や所蔵家の協力が欠かせないものだが、この「ヴィーナスの夢」は広島県立美術館の所蔵で、全会期を通して作品を借り出すことができないため、特定の期間だけは複製を展示することになった。その複製の制作に一役買ったのが日本ヒューレット・パッカードのプリンタ「HP Designjet Z2100」だ。

 サントリーミュージアムでは初日から4月9日まで、また、後続の名古屋市美術館、北海道立近代美術館でも同様に複製展示期間がある。所蔵の広島県立美術館にオリジナルを返却しなければならない期間があり、その留守番として、HPプリンタの出力による複製が展示されるという段取りだ。

●複製を残す意義

 「ヴィーナスの夢」は、ダリが'39年のニューヨーク博のために手がけたパヴィリオンの中に配置されたシュルレアリズム的展示物の背景を飾る絵画として制作されたもの。4つのパネルで構成され、左の2つのパネルに描かれている溶ける時計のイメージは、'31年の作品「記憶の持続」とほぼ同じイメージだし、右側の部分も、ダリの世界を象徴するモチーフが満載だ。

 記録によれば、この作品の背景部分はアシスタントが担当し、そこにダリが時計などのモチーフを書き込んだとされているそうだ。つまり、そもそも、この作品そのものが、複製を重ねて成立したものであったともいえるかもしれない。

 複製出力作業を担当したのは、京都在住のグラフィックデザイナー、山口晃吏氏だ。山口氏はカメラマンを連れ、オリジナルの展示されている広島県立美術館に赴いた。使用した機材はフェイズワン。1ショットで1億3,500万画素の画像が手に入る。

 前述の通り、今回の作品は4枚のパネルで構成され、しかも、パネルの大きさはまちまちだ。だが、山口氏は均等に4枚のパネルが連続した状態のまま4等分して撮影した。

 オリジナルを見るのはこのときが初めてだったそうだ。合計で5時間しか見ていない。本来なら出力を携えて、もう一度、広島に出向き、厳密にカラーマッチングする必要がある。だが、今回は時間がなく、納期までにその余裕がなかったため、ぶっつけ本番に近い作業だった。

 結局、山口氏は、撮影の現場にカラーチャートを持っていき、ポイントとなる部分の色を決め、そのメモを持ち帰り、カラーマッチングに取り組んだ。

 作業はキャプチャした画像を1枚の画像にする作業から始めた。パネルを均等に4分割したのは、あまりにも本物に近いと困るからだという。したがって、レプリカとオリジナルでは、パネル分割位置が異なる。

 ポイントでの色合わせだけでは、どうしても合わない色も出てくる。山口氏のMacのディスプレイが映し出す色が正しいかどうかを決められるのは、カラーチャートを元にした自分の判断だけだ。

 「このプリンタは現状で考えられうる最高峰の性能を持っていると思います。各社の製品を比較検討してきましたが、とても満足しています。欧米のメーカーの製品なので、別件で使うときに日本の伝統色に近い色が出せるかどうかなど不安なところもあったのですが、うまく期待に応えてくれています」と山口氏。

 また、油彩作品のように、油を盛る表面の凸凹がレプリカ作成に向いていないのではないかとたずねたところ、

 「ダリの作品でも、この作品に限って油の盛りが少なく、また、ライティングで生じる陰影が立体感を出すことに成功しました。平面を立体的に見せるのは不可能ですが。撮影方法によってそれを表現できると思っています。偶然ですが、今回はいろんな条件がとてもうまく合わさったのがラッキーでしたね」

とのことだった。

 山口氏は、客観的にオリジナルと対峙し、作者の意図をスポイルすることなく、近いものを作ることが自分の使命だともいう。

 「展覧会の終了後、作ったものが破棄されるのは慣れていることではありますが、やっぱり悲しいです。おそらくデータを破棄しろとも言われるでしょうね。でも、50年後か100年後かわかりませんが、本物の作品が傷ついたときには修復作業が必要になるわけですよ。でも、そこに2007年2月のデータがあるなら、修復に際して非常に参考になるはずです。

 おそらく、オリジナルは制作時、きっともっとビビッドな色彩だったと思います。でも、レプリカ作成にあたっては、そういう加工をしてはいけないと思いますね。それは立ち入ってはいけない領域じゃないでしょうか」

 ちなみに使った用紙はHP純正の「コレクター半光沢キャンパス」。モニタのキャリブレーションをきちんと行なっておけば、正しい色で出てくるので、特にプリンタ側で特別なプロファイルは用意しなかった。また、一部分のみの色合わせは原則としてやらず、全体の色味を変えているが、燃えるような赤の部分だけは、個別にちょっといじったということだった。

●できてしまったニセ札を破棄する感覚

 サントリーミュージアムは今年(2007年)で13年目になる美術館で、生活や時代の中に息づくアートを楽しくわかりやすく紹介することをテーマに、デザインアートを中心に展覧会を企画してきた。常設展示スペースを持たず、2カ月程度の企画展を継続的に繰り返して運営されている。

 同ミュージアムの学芸員、大島賛都氏によれば「HPの協力がなかったら、今回の展覧会は成立しなかった」とのこと。「もしかしたら、美術の世界におけるレプリカについての認識が変わるかもしれない」とも。

 大島氏はダリ自身が極めてあまのじゃくであったことを指摘し、人がああいえば、そうではないというような人であり、さらに、科学や新しい技術にとても興味を持つ人だったので、もし生きていたらレプリカの方が本物だということがあってもおかしくないともいう。

 今回のダリ展は前売り券も大人気で、前年大評判だったシャガール展の2.5倍の売れ行きを記録、ミュージアム始まって以来のヒットとなりそうだ。ちなみに、一般的な展覧会というものは、会期中に展示が微調整され、作品の並びや順路、導線などが変更される。だから、初日に行けばよいというものではないらしい。

 2006年に東京で開催されたダリ展とは油彩作品の点数では及ばないが、約180点の作品中11点しか重複していない。著作のオリジナル原稿や、グラフィックスアートなど、ダリの多彩な作品群を見ることのできる展覧会として、とても意義のあるものだ。

 「ヴィーナスの夢」は2004年に、世界最初の生誕100年記念イベントのために、ベネチアとフィラデルフィアに渡っている。4枚のパネルを組み合わせた作品ということで、その設置や移動のたびに、付け外しをしなければならず、状態は決して良いとは言えなかった。しかも、広島県立美術館にとっては、まさに目玉作品なので、長期に渡って持ち出すわけにはいかず交渉は難航したともいう。

 貸出期間を限定することで、最終的に交渉は聞き入れられたが、レプリカを作るにあたっては、最初は縦480×横240cmオリジナルを1/4のサイズでとダリ財団に要請されたらしい。だが、大島学芸員はそれでは話にならないとさらに粘り強く交渉、最終的に横400×縦200cmのレプリカとなった。こうして本物の迫力に肉迫するレプリカができあがった。ちなみに、山口氏が証言するように、このレプリカは終わったら破棄される運命にある。ミュージアムの広報担当の高木京子さんは「自宅に持って帰れるものなら、持って帰って飾りたいくらい」と漏らしていた。

 大島氏の言葉を借りればニセ札を破棄するような発想だとのことで、そのくらいオリジナルに酷似しているという。どうせなら留守中は、広島県立美術館で留守番させればよいのにと思うだが、今のところ、その計画はない。だから、オリジナルとレプリカの両方を同じ光のもとで並べて覧ることのできる特権は、1カ月後のオリジナル搬入日に立ち会う大島学芸員や高木さんたち、ミュージアム関係者のみということになる。

【お詫びと訂正】初出時に「ヴィーナスの夢」はむき出しで展示されるという記述をいたしましたが、オリジナルの展示時にはパーティションが設けられます。お詫びして訂正させていただきます。

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(2007年3月9日)

[Reported by 山田祥平]


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