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メディアの時代は遠ざかって



 北京市内を散歩していたら、水をつけた筆を使い、路上で書を楽しむ男性を見かけた。道行く人は、その「作品」をよけて通る。決して踏みはしない。まさにテンポラリーギャラリーだ。影も長くなった夕刻、気温は零度くらいだろうか。石畳の上に几帳面に書き付けられた漢文は、運がよければ気温が下がるとともに、路面に凍り付き、その寿命を長らえるが、やがては消える。それは、はかなくも美しい。

●沈黙を決め込んだAVOD

 CES取材のための出張でラスベガスに行ってきた。往路は成田空港発のポートランド経由でラスベガスに入る旅程だった。ポートランド往きの飛行機に、全乗客が乗り込み、機体のドアが閉められた。この機体には、各席に液晶ディスプレイが埋め込まれ、手元のリモコンを使って各種のコンテンツを楽しめる「オーディオ・ビジュアル・オン・デマンド」(AVOD)が装備されている。このシステムを使えば、10時間近い飛行中に、好きな映画や音楽を楽しめるはずだった。

 隣の席の男性は、さっそくリモコンを手すりから取り外し操作しようとしている。ところが、どうもうまく作動しない。ぼくが座っていたのは23H席で、窓側に並ぶ2席の通路側だ。立ち上がって見てみると、10番以降の窓側ブロックでは、どの席も、液晶が点灯していない。反対側の窓側のブロックも同様だ。中央のブロックは正常に使えているようなので、システム全体の不具合でもなさそうだ。

 隣席の男性は、客室乗務員に不具合を訴えた。何度かのシステムリセット操作が行なわれたようだが、結局、ポートランドに到着するまで、ぼくらの席では、ついに、AVODが作動することはなかった。このシステムを使って行なわれるはずの、安全設備のご案内もなしである。結局、航空会社は、降機時に、おわびの印にAVODを楽しめなかった500マイル分のクーポンを配布して、この不具合を詫びた。

●大衆化とメディアの多様化

 ぼく自身は飛行機の中などで映画を楽しむことはまずない。初めの映画を見てしまったときに、それがとてもおもしろかったりすると、それを映画館で見なかったことを、ひどく後悔してしまうからだ。同様の理由で、テレビの映画放送を見ることはないし、レンタルビデオを借りることも少ない。まして、映画のDVDを買うような場合は、一度は映画館で見たコンテンツに限られる。こういうタイプの人間は古いと言われる。それでいいよと、開き直ろう。

 繰り返し聴く音楽とは異なり、ぼくにとっての映画は、比較的、使い捨てに近い種類のコンテンツであり、一度見た映画を、もう一度見るということは、それほど多くはない。だが、よかった映画というのは、一度見ただけでも、シーンのひとつひとつが、しっかりと脳裏に焼き付いているもので、あとになって、別のメディアで目にする機会があったときにも、初見時の印象がすぐに蘇る。映画館という特殊な空間は、そんな強烈なイメージを刷り込む機能を持っているのだろう。

 映画館で見るのが当たり前だった映画は、今、身の回りを見渡すと、きわめて多様なメディアによって配布されていることがわかる。そして、その視聴者は、思い思いのメディアに収録されたコンテンツを楽しむ。視聴者にとって、配布メディアはさして重要なテーマではなくなってしまっている。この映画は飛行機の中で見たから、もう見なくてもいいと言い切るような層が実際に存在する。

 音楽はちょっと違っていた。かつては、ラジオの深夜放送などでかかった新譜のコンテンツを知り、いそいそとミュージックショップにでかけたものだ。エアチェックという言葉は死語に近いと思うけれど、FM放送をテープに録音していた時期もあったが、気に入った曲は、レコードを手元に置きたいと思った。

 今にして思うと、エアチェックで得ていた音楽コンテンツの音質は、レコードのアナログ音声を、たかだか38cm/sec、2トラックのオープンリールテープにダビングしたものを再生し、帯域の狭いFM電波に載せたものであり、オリジナルのレコードが奏でる音質とはかけはなれたものだった。少なくとも、そのクオリティの違いを再現できるだけのオーディオ装置は手元に置いていた。ここでいうオリジナルとは、ベンヤミンがいうところの「複製技術時代の芸術作品」であり、オリジナルのコピーとして誕生したレコードという新たなオリジナルだ。

 けれども今、インターネットの音楽配信によって、コンテンツを購入したユーザーが、改めてCDを買い直すことは、それほど多くないように思う。ここでもまた、メディアは重要なテーマではなくなりつつある。善し悪しは議論する余地はあるが、クオリティの差異を想像力がカバーする時代なのかもしれない。

●オーバーラップとシフト

 こうした例を見るまでもなく、各種のコンテンツにおいて、メディアは重要なテーマではなくなりつつある。これは、どうしようもない事実だ。ストリーミング配信であろうが、ディスクであろうが、コンテンツの内容を楽しめさえすればそれでいい。さらに、過剰な品位を求めない。それが大衆化ということだ。

 コンテンツホルダーは、実は、とっくの昔に、そのことに気がついているのではないか。最初のうちは、メディアの多様化は、市場を拡大し、ビジネスチャンスを増加させる原動力になる程度に考えていたかもしれない。映画館で上映したら、ディスクで売り、さらにテレビで放送することで、ひとつのコンテンツは、二度、三度、カネを生む。ところが、映画館とディスクは、「オーバーラップ」ではなく「シフト」であったとすればどうだろう。本来なら、コンテンツに魅了され、二度映画館に足を運んだはずの客は、ディスクを繰り返し楽しむだけの客になってしまっているかもしれない。

 優れたコンテンツは、どんなメディアで楽しまれようとも、優れているのだと仮定すれば、メディアはその付加価値を高める一要因にすぎない。より高い付加価値を得ることができるのなら、コンテンツホルダーは、ある種のメディアを平気で切り捨て、さっさと別のメディアにシフトしてしまうだろう。

 大衆にとって、βであろうがVHSであろうが、それはどちらでもよかったように、メディアの種類はどうだってかまわないのだ。Blu-ray DiskとHD DVDのようなディスク規格戦争が終焉を迎える頃、果たして、コンテンツホルダーは、ディスクのようなメディアにこだわり続けているのかどうか。カタチのあるメディアははかない。コンテンツの付加価値を高めるためだけに利用されたことに気がついたころには、新たなシフトが起こっている可能性は高い。


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(2005年1月14日)

[Reported by 山田祥平]

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