山田祥平のRe:config.sys

GUIの文法と独り言



 パソコンを使うようになって独り言が多くなったと実感している方は少なくないんじゃないだろうか。インタラクティブでオンデマンドな時代なのだから、常に、パソコンと対話しながら作業するのはごく自然な成り行きだ。そして、オブジェクト指向はパソコンを使う日本人の独り言にちょっとした変化を与えた。

●言語体系と操作体系

 欧米の人間に比べ、ぼくら日本人は、パソコンを使う上で大きなハンディがいくつかある。1つは、キーボードに慣れ親しんでこなかった点で、たかだか数十個の文字キーでさえ、その習得にはかなりのトレーニングが必要だ。

 さらに、ローマ字モードでは読みからローマ字への脳内変換が求められるし、カナモードでは煩雑なシフト操作が必要だ。しかも、入力した読みはそれを漢字かな交じりに変換しなければならない。

 ただ、海外のカンファレンスなどで、プレスルームで欧米人がパソコンを使っているのを見る限り、タッチタイプでキーを叩いているのを見かけることは少ない。人差し指だけで、驚くほど高速に入力しているユーザーを見かけることも珍しくない。すべての指を使って華麗なタッチでキーを叩くのは、日本人プレスの方が多いくらいだ。

 ただ、日本語の入力の場合、変換が正しく行なわれたかどうかを目で確認する必要があるため、キートップを見る必要はなくても、画面を注視している必要がある。その点、欧文入力ではキーを見る必要もなければ、画面を見る必要もない。これはちょっとうらやましい。

 もう1つのハンディは、やはり言語に関するもので、かつては、それがパソコン習得の高い壁となっていた。プログラミング言語もそうだし、OSのコマンドも、すべて英語がベースなので、日本人にとってはとっつきにくい。

 MS-DOSの例でいえば、fooという名前のファイルを削除するためには、

 C:\>del foo

 と指示する必要がある。

 これは英語における命令文の文法そのものだ。日本語で表現するなら、

 C:\>fooを削除せよ

 という感じになるんだろうか。

 C:\>fooを削除しなさい

 でもいいかもしれない。今の日本語IMEが持つ文法解析能力を持ってすれば、かなりいい加減な日本語で指示しても、正確な作業ができるんじゃないだろうか。

 ところが、進化はその方向には向かわなかった。しかも、WindowsのようなGUIでは、語順も逆になってしまった。オブジェクト指向の指示体系では、操作の対象となるオブジェクトを先に指定すなければならない場合がほとんどだ。ファイルの削除の例でいえば、目の前にあるfooを選択しておいてから、削除ボタンのクリックなり、ごみ箱へのドラッグなり、削除を指示するためのアクションを起こす。そして、それは、日本語の文法そのものだということに気がつく。

 述語+目的語という語順は、日本人にとってはとても自然な流れだが、欧米人にとっては、それまでと逆である。いわば、コペルニクス的展開だ。目的語が最初にくるような操作体系を不自然には思わなかったのだろうか。

●日本人はメニューがお好き

 MS-DOS時代の日本語ワープロソフトのことを思い出してみると、日本語ワープロでありながら、英語の文法を強いていた。ある文字列を削除する場合は、ファンクションキーなどの打鍵によって削除のための機能を呼び出し、対話形式でここからここまでと削除の開始点と終了点を指定しなければならなかった。

 ぼくは、今、NECの携帯電話を使っているが、こちらは、特定の文字列の削除のためには、機能ボタンを押し、メニューから切り取りを選び、そのあとで始点と終点を指定する。最先端のデバイスであるにもかかわらず、まさに、MS-DOS時代のワープロソフトと同じ操作体系だ。

 その一方で、特定のメールを削除するような場合は、先に一覧からメールを特定してから削除のファンクションを呼び出さなければならない。つまり、操作体系が支離滅裂なのだ。なのに、多くの人々は、あまり不自然に感じることなく、携帯電話を使いこなしている。

 もっとも、携帯電話で、受信メール本文の一部を切り取って、別のメールの本文に貼り付けられることを知らない人も少なくないのかもしれない。そういうややこしいことをしなければ、操作体系の矛盾に気がつくこともない。

●できないことでも表示はする

 “グレーアウト”というのはいいアイディアだと思う。本来なら、今たどったシーケンスで実現できる機能であるが、オブジェクトが選択されていないからできないことが明確に伝わる。

 たとえば、Microsoft Wordでの文書作成中に、文字列を選択していない場合には、ツールバー上の切り取りボタンやコピーボタンはグレーアウトし、今は、使えないことがわかる。これは、メニュー内のサブメニューでも同様だ。

 もし、グレーアウトさせずに、項目そのものが表示されないような仕様だったら、けっこう混乱してしまうし、ツールバー上のボタンがしょっちゅう入れ替わってうるさい。

 ショートカットメニューも同様だ。Windowsでは、マウスの右クリックやアプリケーションキーの打鍵によって表示されるが、そのメニューは、コンテクストメニューとも呼ばれ、そのときできることが項目として表示される。用意はされていても、その時点ではできないことは、やはりグレーアウトして、機能が使えないことがわかるようになっている。

 もっともワードプロセッサの場合、入力カーソルが表示されている時点で、その「位置」が選択されていることになるため、操作対象のオブジェクトが常に存在する。だから、切り取りやコピーはできなくても、フォントや文字色の変更はできてしまい、その位置に新たに挿入した文字は、指定したフォントや文字色で入力されていく。

 このあたりは、初心者にとってもわかりにくく、混乱を招きやすい。文字列というオブジェクトが選択されていない場合は、これらのファンクションもまたグレーアウトさせ使えないようにしておくべきではないのかとも思うが、矛盾はあっても便宜をとったということなんだろう。

●GUIが独り言を変えた

 日本語文法の並び感覚で操作できるようになったことで、日本人にとってパソコンは親しみやすいものになったのだろうか。「このファイルを、このフォルダからこっちのフォルダに移動して……」と独り言をいいながら、マウスの操作でファイルをドラッグ&ドロップする。まさに、語順と操作順が一致する。

 初心者にパソコンの操作をたずねられたときには、今、何をやりたいのか口に出していってみるようにいう。本人は「このファイルを、このフォルダからこのフォルダに移動したい」という。それは、ぼくに言うんじゃなくて、パソコンに伝えなさいと返す。このファイルというのはどれですか。本人は「これ」と画面上のファイルを指さす。それは、ぼくに言うんじゃなくて、マウスを使ってパソコンに伝えなさいと繰り返す。すなわち、今のGUIは、日本語で独り言をつぶやき、その通りにパソコンを操作すればいいようにできている。少なくとも日本人にとっては実に自然だ。

 そういえば、MS-DOSの時代には、起こったエラーが、タイプミスなど、自分に起因するものであれば、パソコンに向かって、「悪かったよ」とつぶやき、バグなどで印刷結果がむちゃくちゃになってしまったような場合には、「なんでだよー」と八つ当たりした。

 当時は、処理結果に対して、独り言で反応することが多かったように思う。もちろん、それは今でもある。が、今つぶやく独り言は、口頭によるパソコンへの意志伝達であることが多い。英語を使う欧米人は、その語順の違いにとまどいを感じることはないのだろうか。

 英語を使う欧米人がGUIを不自然に思わず、日本語を使う日本人が機能を先に選ぶ方式を好ましく感じる。言語感覚と操作感覚のリバース現象である。今のGUIしか知らない世代が成長し、開発の最前線にたつ将来、ユーザーインターフェイスは、再び、コペルニクス的展開を経験するのかもしれない。


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(2005年1月21日)

[Reported by 山田祥平]

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