山田祥平のRe:config.sys

デジタルデータの確からしさ



 今のところ、パソコンのディスプレイが持つ圧倒的な解像度は、ほかのデバイスに対する優位性の1つと考えていいだろう。一般的なノートパソコンでもXGA、つまり、1,024×768ピクセルの表示ができるし、最近は、WXGAやSXGA表示のディスプレイも増えてきた。携帯電話やPDAのディスプレイが、たかだかQVGA(240×345)程度であることを考えれば、その違いは大きい。

 その一方で、昨今のデジタルカメラは600万画素超の画像を記録する。その画像をパソコンで楽しむときには、必ず縮小が伴う。フィルムで撮影された写真の鑑賞では、拡大が前提であったことを考えると、対極の関係だ。でも、果たしてそう言い切っていいものだろうか。

●修正と修整

 11月5~11日、朝日新聞の東京版夕刊に「デジタルカメラ最前線」という連載コラムが6回にわたって掲載されていた。毎回、楽しみに読んでいたのだが、その最終回、11月11日掲載の第6回『夢とロマン 広がる表現「質」守れるか』の内容に、ちょっと気になる点があった。

 それは、アテネ五輪でデジタルの底力を実感したというスポーツ写真家、青木紘二氏のコメントだ。同氏は、デジタルカメラを使うようになって、撮り方が変わったとし、

 「男子体操の鹿島選手の背後に鉄棒のワイヤがあった。以前なら違うアングルに移動したが、これは消せるなと続行。実際あとで消しちゃいました」

 と発言したことになっている。

 かなり大胆な発言だとは思う。多少、調べては見たのだが、インターネットの掲示板サイトなどでも、話題にはなっていないようだ。この記事が、asahi.comには掲載されていなかったので、言及しにくかったのかもしれない。

 一般的なフォトレタッチソフトでは、写真をレタッチすることを指して、「補正」という言葉が使われている。この類のソフトの、いわば定番ともいえるPhotoshopなら、イメージメニューの下に「色調補正」というサブメニューがあり、その下にレベル補正や自動カラー補正などの項目が用意されている。これが、英語版のメニューではImageメニューの下に「Adjustments」があり、その下にLevels、Auto Colorなどが並ぶ。

 「Adjustment」は、日本語では「修正」と訳されることが多いようだ。以前に聞いたことがあるが、銀塩写真の世界では、いわゆるレタッチは「修正」ではなく「修整」というのだそうだ。つまり、正しくするのではなく、整える作業がレタッチであるということだ。日本語版のPhotoshopが、「Adjustment」に「修正」という訳語をあてず、「補正」を使った理由は定かではないが、そこにはそれなりの配慮が感じられる。

●写真にウソをつかせる

 新聞や雑誌はもちろん、Webなどに掲載されている写真は、ほとんどの場合、色やコントラスト、ガンマなどが整えられ、シャープネスが強調されたものだ。けれども、そこに写っているものは、実在したものであると信じるのが普通だ。

 真を写したことが歪められていないことを、誰が保証してくれるわけでもないのだが、これはもうメディアと、その受け手との間にある、長年にわたる信頼関係によるものというしかない。広いインターネットには、メーカー未発表の新製品写真といった捏造写真もたくさん見つかるが、その出所によって信頼できるものかどうかを判断することになる。

 さて、鉄棒のワイヤを消す行為は、修整なのだろうか、修正なのだろうか。

 アテネオリンピックの写真はJOCのウェブサイトに「スーパーショットライブラリー」として公開されている。青木氏の属するアフロスポーツは、JOCの公式写真チームなので、この中に、その写真があるかもしれない。

 アフロスポーツは、スポーツ関連に強いフォトエージェンシーで、同氏はその代表者だ。『財団法人日本オリンピック委員会 公式写真集2004 ATHENS OLYMPICS JAPANESE DELEGATION』という写真集も出版されている。

 また、9月に新宿タカシマヤで「2004アテネオリンピック公式写真展-日本代表選手団感動の17日間-」が開催され、ぼくは、それを見に行っているのだが、そのときに、くだんの写真を見ているかもしれない。もちろん、気がつくことはなかった。でも、多かれ少なかれ、こうした行為が行なわれているのだとすると、気分はちょっと複雑だ。

●魔性のデジタルデータ

 色やコントラストを整える行為とワイヤを消す行為は、データの加工という点では同じだ。でも、実在したワイヤを消してしまう行為は、修正でも修整でもなく創作だ。ただ、それによって、写真が伝えるべきものが歪んでしまったわけではない。それがかろうじて、この行為の正当性を確保している。

 消す作業は、周辺のよく似たディティールの部分を探してコピーし、上から塗りつぶしたのか、まるっきりの手作業で描いたのかどちらかによるものだろう。

 ただ、不思議なのは、青木氏が、『以前なら違うアングルに移動したのに、(デジタルだから)続行した』とコメントしている点だ。フィルムではしなかったのに、デジタルだからしてしまう行為。デジタルデータには、人間をそう仕向ける魔性が潜んでいるのだろうか。

 フィルム上の銀の粒にはサイズがあるが、デジタル画像の画素には絶対的なサイズがない。たとえ、等倍表示したところで、12型のディスプレイで見たときと、20型のディスプレイで見たときでは、その印象は異なるし、ぼくらはそれを当たり前のこととして受け止めている。

 CCDやCMOSなどのイメージャがとらえた光の様子は、直接見ることができない。つまり、デジタルカメラが記録した画像は、見られる環境を既定していないことを意味する。そして、ぼくらが目にする写真(のようなもの)は、イメージプロセッサをはじめとした人為によるロジックの処理結果にすぎない。

 フィルム写真の鑑賞は、現像済みのリバーサルフィルムを肉眼で見る以外、拡大が前提だが、デジタルカメラは縮小だと冒頭に書いた。けれども、これは、本当に縮小ととらえてよいのかどうか。イメージャよりも小さなコンピュータディスプレイはあり得ないのだから、実は拡大なのかもしれない。

 カタチがないということは、これほどまでにはかなく、つかみどころがないものなのか。


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(2004年11月26日)

[Reported by 山田祥平]

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