■山田祥平のRe:config.sys■パソコンを使えることは大きな迷惑? |
かつて、パソコンを使えると、人に尊敬してもらえる時代があった。しばらくすると、尊敬こそされないまでも、人よりもちょっとトクができる時代になった。さらに、その時代が過ぎ、今度は、パソコンを使えないと人に迷惑をかける時代がやってきた。その時代が到来するであろうことを承知し、勤勉なユーザーは、ちょっとした強迫観念にかられてパソコンをマスターしようと勤しんだものだ。そして、今、その時代にちょっとした変化の兆しが見え隠れしている。
●パソコンは使えて当たり前
パソコンを使えるというのをどのレベルに置くかは難しい問題だが、ここでは仮に、それなりにキーボードとマウスの操作をこなし、人にめんどうを見てもらわなくても、自分のやりたいことができる程度のユーザーを想定しよう。
MS-DOSの時代は、それだけで尊敬の対象になっていたように思う。Windows 3.1やWindows 9xの時代は、こうしたユーザー層が一気に広がり、パソコンを使えることによって、使えない人よりも、かなりラクができて、トクをしたはずだ。習得に際する苦労よりも、その苦労が生み出すメリットの方が大きかった。ただ、この時代のユーザーは、何らかのトラブルが起こったときに、自分が悪いのか、OSやソフトウェアが悪いのかを切り分けるのが難しく、ずいぶん理不尽な思いをさせられたのではないかと思う。
そのうち、世の中は、パソコンを使えて当たり前という時代を迎えた。時期的には2000年以降ではないだろうか。使えることで誰にも驚かれず、むしろ、さわったこともないというケースが珍しがられる時代である。パソコンの個人需要も、新規購入より、買い換え買い増しのパターンが多くなり、まさに、一家に1台の常備品として認識されるようになった。
現代生活には欠かすことができない常備品としての電話は、一家に1台1電話番号というのが社会的な認知だった、ただ、この原則は、携帯電話の普及によって、脆くも崩れてしまった。電話は1人に1台が普通になり、特定の番号にダイヤルしたときには、必ず、本人が出るようになった。電話番号は、固定された特定の場所へのポインタではなく、個人へのポインタと認知されるようになったのだ。
パソコンも、長い視野で見れば、固定電話が携帯電話に推移していったようなパターンで浸透していくのだろうと考えていた。パソコンは世の中に出始めた当初から「パーソナル」という言葉を冠していたのだから、そもそも、家族で共有するような使い方がイリーガルだったのだ。10年前を思えば、かつて、家族数人で共有するための1台のパソコンを手に入れるために必要だった予算で、家族1人1人に1台ずつパソコンが買えるようになっている。価格にして1/3とはいわないまでも、確実に半額で同等以上の環境が手に入る。
だったら、もっと、個人が自分専用のパソコンを所有するようになってしかるべきなのだが、どうも、世の中はそういう方向に動いているようには見えない。携帯がアッという間にそうなったのに、なぜ、パソコンはこうも違うのだろう。
●やりたいことが、あっさりできる
そもそも、自分のパソコンを持たない、使えないことに対する危機感がかなり希薄になっている。メールはケータイで十分という意識は、その典型だ。コミュニケーションツールとしてパソコンをとらえた場合、メールがケータイですむのなら、その役割の半分がなくなってしまったも同然だ。なにしろ、会社では1日中仕事でパソコンに向かっているのである。自宅に戻っても寝るだけだし、時間に余裕があるなら、テレビやDVDを見たい。ゲームもしなくちゃならない。だから、特に、自宅にパソコンを必要だとは思わないし、なくても困らないという層が増えてくるのはごく自然な成り行きだ。
OSやアプリケーションの進化によって、10年前と同等のことをするために必要な努力が、かなり軽減されたというのも大きな理由だろう。入門書や技術書と格闘しながら、真剣に長時間パソコンに向かわなくても、それなりのことはあっさりとできてしまう。しかも、人間がやりたいと思うことは、10年やそこらで種類が倍増したりはしない。パソコンを使って何をやりたいのかと聞けば、10年前の回答と現在の回答に、さほど大きな違いを見いだすことはできないだろう。
●パソコンの居場所としての点と線
この傾向は、各パソコンメーカーの商品ラインアップにも見てとれる。個人が肌身離さず持ち歩きたいと思う魅力的なモバイルノートパソコンがめっきり少なくなってきているのは、ノートパソコンが出かけるときの必須アイテムになっているユーザーにとっては寂しい限りだが、それも仕方があるまい。一般的には、道具としてのパソコンは職場や自宅という「点」に存在すればよいのであって、「点」から「点」に移動する「線」のITは、すでに携帯電話がおさえてしまった。その「点」も、DVDレコーダーなど、デジタルアプライアンスの台頭が牙城を崩しつつある。
今は、iPodのようなポータブルオーディオプレーヤーが持ち運ばれることで「線」の領域はかろうじてパソコン寄りだが、これが携帯電話にとってかわられるのも時間の問題だ。数十GBのHDDを内蔵した携帯電話というのは考えにくいけれど、今のiPodが携帯電話として機能するなら、その方がいいというユーザーもいるんじゃないだろうか。誰だって、似たような機能の機器を複数持ち歩きたくはない。できることなら、持ち歩く機器は1台ですませたい。携帯電話のない生活など考えられないという層にとっては、ケータイだけですべてがすむのが理想だ。
パソコンでなければできないことは、どんどん少なくなっている。ケータイやデジタルアプライアンスがパソコンから役割を奪った結果だが、その一方で、パソコンが懸命に守備範囲を広げようと試みているようには見えない。
パソコンの大きな特徴は、それがプログラマブルであるということだ。ハードウェアやソフトウェアの追加によって、機能を増やしていくことができることだ。だからこそ、オフィスにはパソコンは欠かせない。現場ごとに、特定用途のアプリケーションが必要なオフィスにおいて、汎用機としてのパソコンをアプライアンスに仕立て上げるのがもっとも安上がりだからだ。
システム管理者の多くは、本当は、パソコンのように柔軟な機器を現場で使わせたくはないと思っているに違いない。できれば決められた用途以外には役にたたない専用機を用意したいと考えているはずだ。そうすれば、ウィルスの脅威に怯える必要もないし、業務上以外の操作によってやっかいなシステムトラブルが引き起こされることもない。それができないのはコストの問題が大きい。
デジタルリテラシーなどあってもしかたがないのだ。Windows XPのレジストリを熟知し、数多のユーティリティを自在に使って快適な環境を作ることは、オフィスでは罪悪以外の何者でもない。そういう意味では、仕事の現場もまた、パソコンを必要としていない。そりゃ、スキルも向上していかないはずだし、伸ばそうという気持ちも無為に終わる。
かつて、パソコンを使えないと人に迷惑をかけてしまう時代があったのに、使えてしまうとかえって人に迷惑をかけてしまう時代になってしまった。パソコンがおもしろかったのは、パソコンの不便を創意と工夫と向上心が解消していた、あの時代ならではの幻影にすぎないのだろうか。
(2004年11月19日)
[Reported by 山田祥平]