世の中には役に立つものと立たないものがある。 たとえば掃除機は床を綺麗にするために役に立つし、冷蔵庫は飲み物を冷やしたり、生鮮食品を保存するために役に立つ。エアコンは部屋を快適な温度に保つ。これらは、いわゆる白物家電と呼ばれている機械たちだ。 それに対してTVはどうか。TVは、部屋にいながらにして、遠くアテネで戦うオリンピック選手たちの様子を手に取るように見せてくれる。現地に赴かなくても感動が手に入るのだから、その点に着目すれば、とても役に立つ機械だ。 けれども、別の見方をしてみたらどうだろうか。水泳は、サッカーは、バレーボールは、柔道は、卓球は役に立つのだろうか。スポーツは体を鍛え、心身共に健やかな生活のために役に立つ。でも、役に立つのはスポーツをやっている本人だけだ。果たして、それをTVで見ることは役に立つといえるのだろうか。 ●コンテンツに依存する役立ち度 白もの家電の役立ち度が、きわめて明白であるのに対して、情報家電の役立ち度はちょっと違う面がある。TVの例をあげたが、これは、CDプレーヤーでも、ビデオレコーダでも同じことがいえる。情報家電の役立ち度は、それが再生するコンテンツに強く依存するからだ。 英会話学習のコンテンツなら、英語を学び、新たなコミュニケーションの展開のために役に立つが、「冬のソナタ」を見たところで、何の役にも立たない。けれども、ぼくらの暮らしには、こうした役に立たないコンテンツによって潤いがもたらされている。 では、パソコンはどうか。パソコンは汎用の道具なので、OSとともに運用するアプリケーションが、その役立ち度を決める。さらに、多くの場合、アプリケーションは、コンテンツを作る道具として機能するし、コンテンツを閲覧するために機能する。 パソコンが、スタンドアローンで使われていた時代、アプリケーションを運用するためには、パソコンショップでパッケージソフトを購入するしかなかった。あるいは、自分でアプリケーションを作る方法もあったが、アプリケーションを作るには、そのためのアプリケーション、すなわち、コンパイラやアセンブラなどの開発環境を購入する必要があった。 そして、そのアプリケーションは、ほとんどの場合、コンテンツを作るために使われ、第三者が作ったコンテンツを閲覧することはほとんどなかった。作られたコンテンツの多くはプリントアウトされ、第三者が他人の作ったコンテンツを見るときは、たいていが紙に出力されたものだった。 ところが、パソコン通信やインターネットの浸透が、パソコンで第三者が作ったコンテンツを見る機会を格段に増加させた。そして、それらのコンテンツには、役に立たないものもたくさん含まれているのだ。そして、その役に立たないコンテンツもまた、パソコンで作られている。 役に立つコンテンツを閲覧するときには、パソコンは役に立つ機械であるし、役に立たないコンテンツを閲覧するときには、パソコンは役に立たない機械となる。まさに七変化だ。 ●汎用と専用 昔書いた著書に、富士通の神田泰典氏のインタビューでの発言を引用したことがある。神田氏は日本が生んだ素晴らしきワードプロセッサOASYSの生みの親として有名な方だが、趣味が園芸(椿)で、氏のウェブサイトには椿の花の写真も満載だ。ぼくは、直接、ご本人にはお会いしたことはないのだが、パソコン通信華やかりし1980年代の終わりに、アスキーネットで「ツバキ」というハンドルの人物とチャットをしたことを覚えている。証拠など、何もないのだが、きっと本人であったと思っている。そういう時代だったのだ。 さて、その神田氏の発言である。
「掃除もできる、洗濯もできる、クーラーにもなる。そんな万能モーターがあったとして、みんなそれを買うだろうか。やっぱり掃除機、洗濯機と、専用の電化製品を買うのではないだろうか。そちらの方が使いやすくて便利なことはわかりきったことだ。ワープロとパソコンの関係にはそれと似たようなところがある。スペースの節約? どんなにせまくたって、必要なもの、欲しいものは買ってしまうのが日本人ですよ」
かくして、汎用機としてのパソコンに、ワードプロセッサというアプリケーションのファンデーションを塗ったワープロ専用機が、パーソナルワープロとして日本中に蔓延することになった。 ●消えたパーソナルワープロ 当時の論調でもっとも説得力があったのは、「ワープロならなんとなくわかりそうな気がするのだが、パソコンはどうも難しそうだ」というものだった。ワープロ専用機も、パソコンも似たような風体を持っているが、キーボードを見ただけでも、その違いは明らかだった。ワープロ専用機のキーボードには、削除、移動といった編集用語を日本語で刻字したファンクションキーが装備されているのに対して、パソコンのキーボードのファンクションキーはF1、F2などと、きわめて曖昧だ。パソコンは汎用の機械なので、F1キーに割り当てる機能はアプリケーションが決める。あるアプリケーションで複写を意味するキーは、別のアプリケーションでは削除を意味する可能性もある。だから、キーボードに特定のアプリケーションに依存する機能名を刻字するわけにはいかなかったのだ。 だが、そのワープロ専用機を作っているメーカーは今はもうない。2000年夏に東芝、年末に松下がパーソナルワープロ市場からの撤退を表明、2001年1月にはNECも同様に撤退を表明している。最後の最後までがんばるかに見えた富士通も翌月2月に撤退を表明している。 この原稿を書くために、当時の資料をひっくりかえしてみたところ、ぼくは撤退について各社に取材しているのだが、どのメーカーも、撤退の表明に際して、プレスリリースを出すわけでもなければ、ウェブサイトで告知するわけでもない。一般の報道にまかせるという姿勢を貫いているのが興味深い。 ●役に立たないことができなければ生き残れない どうしてあれだけの繁栄を勝ち取ったワープロ専用機が消え去ってしまったのか。それは、ワープロでは役に立つことしかできなかったからであり、役に立たないことをするためには、ワープロ専用機は、汎用機としてのパソコンになるしかなかったのだと思う。 手元に、1994年に成城大学短期大学部の講座で収集したアンケートの結果が残っている。その中で、パソコンを使えば何でもできると仮定して、何をやってみたいかを聞いた問いに対するコメントがある。
■画像を自分でつくって、動かしたりさせてみたい。またパソコン通信も。 現在は28歳になっているであろう当時の彼女たちに敬意を表して原文のままとした。パソコンを使えば何でもできると仮定しているにもかかわらず、突拍子もない発想があまりない。10年前のパソコンは、この程度にしか期待されていなかったということだ。便利と実用の対局にある「役に立たない」ことにパソコンの未来を見いだすには、まだ、早すぎたということなんだろう。
(2004年8月20日)
[Reported by 山田祥平]
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