山田祥平のRe:config.sys

希薄化するオリジナルの存在感



 映画はできるだけ映画館で見たいと思う。たまたまビデオでいい映画を見てしまったときには、映画館で見ればよかったと、すごく、ソンをした気分になる。そんなことをいっているものだから、時間を確保できずに、新作映画をどんどん見逃してしまうわけで、なんとも本末転倒な状況が続いている。

 なぜ、映画を映画館で見たいのか。それは、基本的に、映画を作る側が、映画館で見られることを前提にコンテンツを作っていると思っているからだ。

 でも、本当にそうなのだろうか。

●トリミングとはみ出し

 現在の映画は、その多くがアメリカンビスタというサイズで作られているそうだ。このスクリーンサイズの縦横比は1:1.85だ。だから、映画館では、この縦横比で映画が上映される。

 この映画がDVDになると、ワイドテレビの画面で見られることになるはずだが、その比率は9:16、すなわち、1:1.777であり、アメリカンビスタのスクリーンサイズよりもワイドテレビの方がほんの少し、長辺が短い。

 最近は映画を作る側も、DVDになることを前提に作っているだろうから、フィルム上に写っているものと、作品として見られるものに相違があることを承知の上で制作されているのかもしれない。だからというわけでもなかろうが、映画紹介サイトはもちろん、映画の公式サイトを見ても、オリジナルのサイズが記載されていないことが多いのに驚く。

 上映用とDVD用で異なるトリミングを施し、それぞれがオリジナルだという考え方なのだろうか。映画館で見えたものがDVDでは見えないのはもちろん、ケースによっては映画館で見えなかったものがDVDで見えたりすることもあるらしい。あるいは、誰もそんなことは気にしていないのか。

 テレビの場合はもっとアバウトだ。ちょっと前のテレビは、ほとんどがオーバースキャン状態で見られていたので、テレビ番組を作る側も、はみ出す部分があることを前提にし、フレーミングに余裕を持たせて撮影していた。編集時にテロップなどを入れる場合も、家庭用の一般的なテレビで表示した場合に、よほどのことがない限りは、ブラウン管の外にはみ出すことがないように配慮をしていた。

●写っているのにプリントされない

 ほとんど同じなのだから、そんなことはどうでもいいという意識は、いつごろからぼくらの中に形成されていったのだろうか。

 写真の同時プリントなども身近な例だ。一般のカメラで使われている135サイズのフィルムは、24×36ミリの矩形に被写体を記録する。縦横比は2:3だ。撮影済みのフィルムはDPEショップで現像され、プリントになるが、L判サービスサイズの寸法は89×127ミリだ。つまり、1:1.5のオリジナルが、1:1.43の印画紙にプリントされる。当然、オリジナルには写っているのにプリントされない部分が生じる。

 ただ、フィルムの場合、ユーザーが欲しいのはプリントであり、そのオリジナルであるネガを重要視しない。カラーネガにはオレンジのマスクが施され、画像が反転している現像済みネガを見ても、その内容はよくわからない。だからあまり気にしない。135フォーマットとL判の縦横比が極端に違わないことも功を奏している。そりゃそうだ。135フォーマットのプリントのためにL判が考えられたのだから。

 デジタルカメラの場合はどうか。一眼レフデジカメをのぞき、ほとんどの機種は、3:4比率の画像を記録する。撮影時には、カメラ背面の液晶モニタでフレーミングするし、そのモニタで撮影結果を楽しんだりするわけだが、モニタには、写ったものがはみ出ることなくすべて表示される。

 パソコンに取り込んだときも同様だ。パソコンのモニタの縦横比も3:4だし、ワイド液晶などであっても、記録されているデータをノートリミングですべて表示するのが普通だ。

 こうして、デジカメは、必然偶然を問わず、撮影時にフレームの中に入り、写ってしまったものを、すべて見るという環境をもたらした。本当なら、これは素晴らしいことであったはずだ。

 ところが、それをプリントする際には、フチなし印刷が好まれる。しかも、フィルムとの比率の違いよりも、もっと大きく比率が異なるL判へのフチなし印刷だ。ほぼ3:4比率のDSCサイズの用紙もあるが、人気があるのは圧倒的にL判だ。上下左右に余白をとっても、それなりに大きなサイズでノートリミングプリントできるA4用紙にプリントする場合でも、やっぱりフチなしが歓迎される。

 フィルムカメラの普及機は、一眼レフではファインダー視野率が低かったり、写ルンですのようなレンズつきフィルムのファインダーでは正確なフレーミングが難しいので、プリントがすべてという結果になるのもわからないではない。

 でも、デジタルカメラの場合は、相当のローエンド機でも、液晶モニタはほぼ100%の視野率を確保している。写っていることを知っているのに、それがプリントされないことを認めてしまっているのだ。

 ここにも、ほとんど同じなのだから、そんなことはどうでもいいという考え方がある。

●作る側と受ける側の間にある暗黙の了解

 書籍の場合はどうだろう。雑誌で人気の連載は書籍になる。その書籍がベストセラーになれば、数年後には文庫本になる。コミック誌の連載も定期的に単行本化されるが、版のサイズは大きく異なる。フォーマットが変わったからといって、内容が失われるわけではない。ほとんど同じなのだから、そんなことはどうでもいい。作る側と受ける側との間にある暗黙の了解だ。

 ぼくは、この原稿を書くために、シェアウェアの秀丸エディタを使っている。執筆時は、横20字のウィンドウ幅で、表示は13.5ポイントのSystemフォントだ。その見かけはゴシック体に近い。さらに、行間は1/2ピッチと、多少広めに設定している。

 一方、ウェブブラウザーには、Internet Explorerを使っているが、その表示フォントはMS(P)明朝に変更している。だから、このシリーズの掲載ページを開けば、本文は明朝体で表示される。IEのデフォルトはゴシック体なので、それを変更していない場合は、ゴシック体で表示されるはずだ。だから、多くの方は、ゴシック体でこの原稿を読んでいるのかもしれない。

 表示書体が変わろうが、ページの体裁が変わろうが、YESがNOになるわけではない。内容はちゃんと伝わる。パソコンの中での文字情報は、文字と1対1に対応した文字コードにすぎず、その見かけは文字の持つプロパティだ。程度の違いこそあれ、画像も似たようなものだ。プロパティを書き換えればその見かけは変わる。ゴシック体表示が明朝体表示に変わるように、どんよりした曇り空の黄昏も、真っ赤に染まった夕焼けに変わる。ほとんど同じなのだから、そんなことはどうでもいい。

 本当にどうでもいいのだろうか。


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(2004年8月12日)

[Reported by 山田祥平]

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