元麻布春男の週刊PCホットライン

Adaptecという会社が消えた日



 移り変わりの激しいPC業界では、新しい会社が誕生したり、歴史のある会社が消えて行ったりすることは、決して珍しいことではない。それでも、長い間親しまれてきた会社が消えて行くのを見るのは、寂しいものである。今年もいくつかの会社が消えていったが、筆者にとって特になじみ深かったのがAdaptecだ。

PCIバス対応のFAST SCSIホストアダプタであるAHA-2910cに使われていたAIC-7856T

 1981年に創業したAdaptecは、SCSIのホストアダプタやRAIDコントローラで知られる会社だった。また、ある時点までは、SCSIのホストコントローラチップを自社開発するファブレスの半導体会社でもあった。

 筆者がAdaptecの製品を知ったのは、1980年代後半のことである。1985年にIntelが386DXプロセッサをリリースし、x86上に初めてまともなUnix(最初はIntractive Unix 386/ix、少し遅れてSCO UNIX)がポーティングされた。それまでの80286では、XenixのようなUnixライクなOSはあっても、Unixの全機能を実装することはできなかった。386DXプロセッサの登場で、それが可能になったわけだ。

 386/ixの登場で、x86の世界にも本格的なマルチタスクの時代がやってきたのだが、そこで問題になったのがI/Oによるシステム性能の低下だ。当時使われていたPC/AT(実際には386 AT互換機)のディスクI/OはCPUによるPIOであり、I/OがCPUを専有する。これはシングルタスクのMS-DOSでは合理的で有効(どうせディスクI/Oが終わるまで、他になにもできない)だったが、UnixのようなマルチタスクOSでは、ディスクアクセス中に性能が低下してしまうため都合が悪い。

 この問題の救世主的な存在となったのが、Adaptecの「AHA-1540」と「AHA-1542B」だった(後者はFDDコントローラ付)。AHA-154xは、ISAバスに対応したSCSIホストアダプタカード(拡張カード)だったが、カード上にバスマスタエンジンを持っており、データをDMAでメインメモリに転送することができた。つまり、ディスクI/OにCPUを利用せずに済むため、結果的にシステム性能が向上したのである。

 この時代、他にもバスマスタ方式を採用したSCSIホストアダプタは存在した(Western DigitalのFASST等)が、AdaptecのエンジニアがUsenetのニュースグループ上で、386/ixでの利用法等の質問に答えてくれたこともあり(あくまでも個人として)、急速にデファクトスタンダードとなった(ハードウェア性能的にもAHA-154xの方が若干良かった)。まだインターネットが商用化されておらず、ニュースやメールのパケットがUUCPによるバケツリレーで運ばれ、原則実名だった時代の話だ。もちろんUNIX System Vベースの386/ixに、GUIなど存在しなかった。

 こうしたUNIXでの名声は、主流であったDOS/Windowsの世界にも聞こえてくる。Adaptecには、DOS/Windowsで使いやすいPIO方式のホストアダプタ(AHA-152xシリーズ)もあったが、売れるのは圧倒的にAHA-154xシリーズだったという。

 元々、CPUあるいはオンボードのDMAコントローラ以外のデバイスがマスタとなることを想定していないISAのシステムで、AHA-154xシリーズのようなバスマスタDMAを行なうデバイスを利用することは、非常に微妙だ。少なくとも、ほかのデバイス(DMAを行なうすべてのデバイス)も含め、正しく設定を行なわないと、たちまちシステムがフリーズする。今と違って、割り込み、メモリアドレス、DMAチャネルといった利用するハードウェアリソースの設定は、拡張カード上のジャンパピンやディップスイッチとCONFIG.SYSファイルに書くデバイスドライバの引数で設定していた時代だから、決してハードルは低くなかった。

 にもかかわらずAHA-154xシリーズが人気だったのは、今思うと不思議な話だが、AdaptecがDOS/Windows上の標準SCSI API(ASPI)の開発元だったことも、プラスに作用していたのだろう。また、1990年代の半ばあたりまで、BIOSの制約によりATA/IDEのHDDには、容量528MBの壁(BIOSとIDEインターフェイスによるもの)があり、大容量HDDを利用したいユーザーは、SCSIを利用せざるを得なかった、ということも人気の裏にはあったハズだ。この壁を超えるものとして登場してきたのがEnhanced IDEだが、当初は互換性問題も多く、SCSIの方が無難な時代もあった。

 また、8bit SCSIの場合でも1枚のホストアダプタに最大7台の周辺機器を接続可能なSCSIは、1つの割り込みで7台の周辺機器を接続できるという点でも好ましかった。割り込みを共有できないISAバスでは、接続したい周辺機器の数が、利用可能なハードウェア割り込みの数より多い、ということもあったのである。

 こうしたSCSIの優位性(特にクライアントPCにおける優位性)は、その後徐々に失われていく。ANSI(現INCITS)によるATAの標準化とIntelチップセットによる標準サポート、PCIバスによるハードウェア割り込みの制約からの解放、外付け周辺機器接続インターフェイスとしてのUSBの登場と普及は、クライアントPCからSCSIを不要なものにしていった。

 サーバー分野においても、今のところパラレルインターフェイスのSCSIは、Ultra 320 SCSIが生き残ってはいるが、すでにその後継となるSASの普及が始まっており、そう遠くない将来消えることになるだろう。が、SASだけでなく、SANに使われているiSCSIも含め、プロトコルとしてのSCSIは、まだまだ使い続けられそうだ。

 さて、1990年代末、クライアントPCからSCSIが不要となった頃、Adaptecにも大きな変化が訪れた。それは自社のPeripherals Technology Solutions部門をST Microelectronicsへ売却したことだ(1998年11月)。同部門は、当時Adaptecの売上げの25%を占めていた半導体部門である。SCSIホストアダプタとチップからスタートし、一時期はEthernetアダプタやIEEE 1394製品も手がけていたAdaptecだが、以降はRAIDコントローラベンダーへと転身することになる。

 かつてほどの華やかさはないにしても、RAIDコントローラベンダーとして、堅実な歩みを始めたかと思われていたAdaptecだが、2007年3月、投資ファンドであるスティールパートナーズが、株式の10.7%を取得していることが明らかになった。スティールパートナーズは、Adaptecの旧経営陣と対立し、2009年10月、経営陣の退陣を求めて株主の委任状獲得合戦へと踏み込む。スティールパートナーズ側は株式の買い取りを進め、保有率を14.6%まで高めるなどしたこともあって、スティールパートナーズ側が勝利した。その結果、旧経営陣は退陣、スティールパートナーズから暫定CEOが送り込まれた。

 そして2010年5月、スティールパートナーズ傘下のAdaptecは、唯一残っていたRAIDコントローラ事業やAdaptecブランドを売却することでPMC Sierraと合意、6月に売却が完了した。事業の実態を失ったAdaptecは、ブランドを売却したこともあって、NASDAQの登録名と同じADPTに社名を変え、ほとんど実態のない金融会社となった。そして7月30日、実態のないADPTに対し、NASDAQは上場廃止決定を通告、30年近い歴史のあったAdaptecという会社は、完全に表舞台から消え去ることとなった。

 このAdaptecの一例だけで、スティールパートナーズを焦土化経営を行なう濫用的買収者であると断じることはできない(ただし東京高裁が、ブルドッグソースのTOBに関する訴訟でスティールパートナーズを濫用的買収者と認定した事例がある)。また、これが資本主義のルール(法律とは異なる)のうちの行為であることも事実だろう。しかしこれが、企業価値とはいったい何なのか、と考えさせられる事例であることもまた事実だ。資本主義自らが企業活動を損ないはじめている例なのかもしれない。資本主義は善でも悪でもなく、ただ人間の欲望を忠実に反映したシステムに過ぎないと筆者は考えている。

 さて、PMC Sierraに買収された旧Adaptecの事業だが、買収後まだ日が浅いこともあり、今後の展開は予測できない。現時点では、ほとんどの製品の販売とサポートが継続されており、ユーザーが困惑する事態にはなっていないようだ。不幸中の幸いであると同時に、今後のPMC Sierraによる事業展開に期待したいところである。