山田祥平のRe:config.sys
繋ぐことよりも繋いで何をするかが問題だ
(2015/9/4 06:00)
時代はIoTにシフトしていると言われている。パーソナルコンピューティングはデスクトップ、ラップトップデバイスからスマートデバイスに主戦場を移したかと思えば、アッという間に指先の時代に突入しようとしているらしい。だが、その先にある未来がまだ見えない。
あらゆるものがインターネットに繋がる
例年通りIFA取材のためにドイツ・ベルリンに来ている。これを書いているのは会期が始まる前日だが、この2日間で既に7つものプレスイベントを消化して早くも疲労困憊だ。
Samsungのプレスイベントでは、これからの5年間をかけて、あらゆるデバイスを繋いでいくことが宣言された。ハブとなるのはもちろんスマートフォンで、身の回りのあらゆるモノからの情報を集約し、人間の睡眠さえも把握してインテリジェントなコントロールが行なわれる。半世紀ほど前であればSFの世界の話だが、今となっては、目の前にあるテクノロジーを束ねれば明日からでも享受できる世界であるという。
Intelは、自らをコネクティングカンパニーであると宣言した。モノとモノを繋ぐためのビルディングブロックを提供し、やはり、ありとあらゆるものを繋いでいくという。かつて、インターネットのビルディングブロックを提供する企業になるとした頃を彷彿とさせる。
そんなわけで、あらゆるクラスタのキープレーヤーが、IoTの時代に乗り遅れるまいと、そして、その先に垣間見える時代においてもキープレーヤーであらんとしようと躍起になっている。今、ぼくらがドップリと漬かっていて、もはや暮らしには欠かすことのできない存在となったインターネットインフラの主導権は、この先、誰が手にすることになるのだろう。
モノはモノを言わない
当たり前の話だがモノはモノだ。そこにあるのだけれど何も言わない。これまではそれが当たり前だった。コンピュータだって昔はそうだった。語りかけない限りは何も言わなかった。
その昔、プログラミング言語BASICで語りかけなければタダの箱だったコンピュータは、デタラメにキーボードを叩くとSyntax Errorと冷たく応えた。言語を理解しようと努力したものだけが、求める答えを得ることができ、ゲームを楽しんだり、複雑な計算を委ねたりすることができたものだ。
そのうち、コンピュータは計算機からアプリケーションの実行機を経て、ついには通信機になった。そして、途端にコンピュータは饒舌になった。通信経路の向こう側には膨大なコンピュータがいるのだから当たり前だ。そして、それらのコンピュータの先にはヒトがいる。自分で入れておかなければ何も出せなかった頃とは次元が違う。
モノがインターネットに繋がるというのは、かたくなに寡黙だったモノが饒舌になるということを意味する。今や相当小さなデバイスにもマイコンが実装され、四半世紀前のPCと似たような処理能力を備えている。それが計算機から通信機へと姿を変えるのがIoTだ。
今、ぼくらが日常的に接しているスマートデバイスよりも、遙かに多くのデバイスが通信機としてインターネットに接続されていくのだから、そこにビジネスチャンスを見出そうとするのは当たり前のことだ。
デスクや膝の上で使われるPCよりも、ポケットに収まり、手のひらの上で使われるスマートデバイスの方がずっと利用時間が長くなるというのは分かりきったことで、だからこそ、スマートフォンのようなモバイルデバイスは、アッという間に浸透した。PCなんて必要ないと言い切る人さえ出てきている。でも、それが今、岐路に立っていることは否めない。手のひらの上で使えるコンピュータという夢がかなったのに、それで何をするかが見えなくなるのだ。それは、パーソナルコンピュータが辿ってきた道程をアッという間にトレースしてしまったモバイルデバイスの当然の帰結といえる。
モノを繋げばヒトが繋がる
IFAはそもそも家電の展示会だったが、それをPC業界が席巻し、さらに、いつの間にかモバイルデバイスが覇権をちゃっかり横取りした。それを家電が取り戻そうとしている。
これまでとちょっと違うとしたら、覇権の奪い合いではなく共存共栄を御旗に掲げているところだろうか。PCもスマートフォンも自然な存在としてそこにあることを前提に、モノとしての家電などあらゆるモノが繋がり、何か大きなムーブメントを起こそうというわけだ。これまではインターネットインフラの蚊帳の外にいた白物家電どころか、家電というにはおこがましいようなものまでが、この共和国の市民となろうとするムーブメントだ。
そんなものまでがインターネットに繋がって、いったい誰がどんな得をするんだというのが当然の疑問である。そして何が繋がるのかという素朴な疑問もある。今、ITプロフェッショナルはそれに対する明確な答えをまだ持っていない。確かに、遠く離れた場所にあるスーパーの食品売り場で、自宅の冷蔵庫に卵が入っているかどうかが分かれば便利なことは分かっているのだが、それがどうしたという気持ちも分からないではない。その答えを持っているのは、ITプロフェッショナルではないのかもしれない。
コストについては大きな問題ではなくなるだろう。何しろ電卓と水のペットボトルが同じ値段で100均などの店頭に並んでいるような時代になることを誰も想像しえなかったことを考えても分かる。とにかく何もかも繋いでみよう。そうすればきっと何かが見えてくるはず……。そう言いつつ、それなりに長い時間が経ってしまったようにも思う。なのにその先の世界が見えない。
パーソナルコンピューティングはシュリンクの歴史の積み重ねだった。空調なしでは成立しないような豪華な部屋に鎮座していた計算機にお願いをして結果を得ていた時代から、デスクに行けば計算ができるようになり、さらにそれが膝の上でできるようになり、ついには手のひらの上で望みのことができるようになった。
ところがIoTについてはそれがある世界が想像し難い。あらゆるモノが繋がった結果、どんなパラダイムの変化が起こるのか。そして何ができるようにすればパラダイムが変化するのか。今はまだ、変化させることは視野に入っていても、その変化によって、人々の暮らしがどうなるかの想像が貧しい。既存の想像の域を超えられていないのだ。
きっと、そこに宝の山としてのビジネスロジックを見出したものが次の時代のOver the Topの座を手に入れるのだろう。ただ、モノを繋ぐということは、それに関わるヒトを繋ぐということでもある。今まで想像だにしなかったルーティングが成立することで何かが変わる。でも、それはまだ先の話。そんなことをあれこれと考えられる機会としてもIFAにやってきた価値は見いだせたと、自分では思っている。