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秋の夕日に照る山紅葉、濃いも薄いも数ある中に




 自然界のダイナミックレンジは、音にせよ、光にせよ、とてつもなく広い。それをぼくらは、当たり前のように二次配布メディアで見たり聴いたりしてきた。デジタル時代に始まったことではない。身の回りにある雑誌や新聞などに掲載されている写真、そして、テレビ映像、CDやDVD、そして、ラジオ放送など、すべてがそうだった。

●自然界のダイナミックレンジは再現できない

 今回のタイトルは、日本人なら誰でも知っている唱歌『紅葉』の冒頭だ。この詞は、このあと「松をいろどる楓や蔦は、山のふもとの裾模樣」と続く。この歌の作詞家である高野辰之は、信越の碓氷峠の紅葉の美しさに感動して、この詞を書いたらしい。高野辰之と唱歌に関しては、いろいろな事情があるようなのだが、その話は、また機会を見て書くことにして、「濃いも薄いも数ある紅葉」という一節は、いわゆる階調を意味している。

 濃いというのはどのくらい濃い赤なのか。ある特定の濃さの紅葉を、色温度の低い夕陽が照らすことで、その濃さはまた、異なる階調となる。それをヒトのまなざしは見て感動を覚える。

 その感動を他者に伝えたいから、ヒトは表現をする。高野辰之の場合は、その手段が詞だったわけだ。画家なら絵筆を握り、写真家ならシャッターを切る。小説家なら短編をこしらえるだろう。新聞記者ならそれを記事にするわけだ。それでも、実際にどうだったかはわからない。感動はアーティストによって増幅されているからだ。ロマンがないといわれそうだが、実際に高野辰之が見た景色は、せっかくでかけたのに、まだ紅葉が見頃にほど遠い時期だったのかもしれないからだ。

 いずれにしても、ぼくらのまなざしが、視覚メディアにふれるときには、もともと自然界が持っていたダイナミックレンジは、かなり圧縮されている。じゃあ、そのダイナミックレンジとは何なのか。

 たとえば、白い紙の反射率はおおむね90%程度といわれている。また、黒い布の反射率はおおむね3%だ。

 白い紙の半分の反射率は45%、さらにその半分は22.5%、さらに11.25%、5.6%、2.8%となっていく。つまり、

 90 >> 45 >> 22.5 >> 11.25 >> 5.6 >> 2.8

となり、白い紙から黒い布までは6段階あることがわかる。その中間は22.5と11.25の間にあり、約18%とされている。これがいわゆる中間濃度18%グレーで、ここを基準にすれば、真っ白から真っ黒までを再現できるということになっている。もちろん、太陽そのものはもっと明るいし、光に照らされていない黒い布はもっと暗い。だから、明るい方と暗い方に2段階ずつプラスし、10段階くらいが実際の階調ということになるだろうか。

 この階調を8bitで表現すれば階調は2の8乗で256通り、10bitなら1,024通り、12bitなら4,096通り、16bitなら65,536通りとなる。カラーの場合は、RGBの3色があるので合計24bitでフルカラーを表現する。したがって24bitカラーは16,777,216通りの色を表現でき、今、Webで見ることができるJPEG画像がこれだ。

 人間の目が識別できる階調は256階調以下なので、これだけの階調があれば、まず、どんな色でも表現できそうだが、やっぱり、トーンジャンプが起こったりするからやっかいだ。なにしろ、太陽の明るさを液晶ディスプレイのバックライトの最大輝度に相当させるのだから無理がありすぎる。

 だが、何よりもやっかいなのは、これらのデータを見るために所有しているデバイスが、人それぞれで異なるという点だ。ここがアナログの時代とデジタルの時代では徹底的に異なる。オンラインショッピングで気に入った色合いの洋服を見つけて購入しても、届いてガッカリということはよくある。紙のカタログの場合は、かなり綿密な色校正が行なわれているし、配布するメディアを送り手側が把握しているため、大きな食い違いは発生しないが、ディスプレイではそうはいかない。

 これはテレビ放送でも同じで、デバイスの経年変化や部屋の明かり、メーカーごとの色作りなどの要因によって、同じ放送映像を、人々はまったく異なる色で見ているといってもいいだろう。電波事情によってはゴーストが邪魔をし、そのリダクションでさらに絵が変わる。

 それでも人間の目や耳というのはすばらしい。情報量の不足、食い違い、相対差を驚異的な寛容さで吸収し、復元してしまう。だからきっと、冒頭の画像を見たときに受ける印象は多くの読者にとってほぼ同じだろう。

 音の場合はもっとすごい。存在する音がなくてもそれを補完してしまう。AMラジオ放送とFMラジオ放送、デジタルオーディオプレーヤーと高級オーディオセットなど、各種のメディアとデバイスの組み合わせは無限に近いし、そこから出てくる音には極端な違いがあるのに、ソースが同じCDなら、それなりに聴けてしまう。聞こえない分の音は想像力が補完するからだ。

●似て非なるものを同じとする

 こうしてぼくらは、似て非なるものを、同じものであるという暗黙の了解の元に受け取ってきたし、それで、大きな不便を感じることはなかった。

 でも、考えてみたら、今よりもずっと空気がきれいだった昭和初期と現代では夕陽に照らされる紅葉の色は違っていたかもしれない。でも、昭和初期の夕陽を再現する方法がない以上、それを自分の目で見ることはかなわない。

 でも、デジタルの時代には、「きっとこうだったはずだ」を作ることができるかもしれないし、「今はこうなのだ」を残すことができるかもしれない。

 アメリカの国立公園の多くの写真を遺したアンセル・アダムスに興味深いエピソードがある。彼はもともと日付に関して関心が薄かったらしく、そのことが、遺された写真の整理に際して深刻な問題になっているようなのだが、<<日の出、エルナンデス>>という写真があって、撮った本人は、その写真の撮影年として、1940年、1941年、1942年、1944年と、いろいろな日付をつけていたそうだ。ところがのちに、天文学者のディヴィッド・エルモアによって、写っている月と星の位置関係から1941年10月31日しかありえないと判定されたというのだ。アンセル・アダムスの写真には文化的に短命なものがほとんど入り込まないために、特に、撮影年代を導き出すのが難しくなっているがゆえのエピソードだ。

 以前、エジプトの王家の谷を見学したときに、3~4千年前の時の流れを経た壁画に、鮮やかさを残す顔料の色を見つけ、ある種の感動を覚えたものだが、今のデジタルの時代の色は、4千年後、どのように再現されることになるのだろう。秋の夕陽に照る山紅葉の色は、どう認識されているのだろう。

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(2005年10月14日)

[Reported by 山田祥平]


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