今から10年前、Windows 95は、世の中を大きく変えようとしたし、事実、大きく変わった。この10年、パソコンを取り巻く環境は、激動の時代を過ごしたといえるだろう。でも、そこには必ずしも進化ばかりがあったわけではない。ある意味で、Windows 95は、パソコンを取り巻く環境を後退させたOSでもあった。 ●メディアリッチを紙に戻したワールドワイドウェブ ワールドワイドウェブは、パソコンを使う人々を激増させたし、それまでのコンピュータの使い方のスタイルにも大きな変革を与えた。そしてそのスタイルをそのままパソコンで実現するために一役買ったWindows 95は、ある意味で、時代を変えたOSであるといっていいだろう。 けれども、インターネットは人々の生活に、新たな時代をもたらすと同時に、ある意味で、その時点で完成に近づいていた環境を、いったんリセットしてしまった。というのも、Windows 3.xまでで、つたないながらもメディアリッチを完成させ、そのスタイルを確立していた環境が、10年前に戻ってしまったからである。 あの当時のウェブは、今からは想像もできないくらいに表現力に乏しかった。たとえば、PC Watchの創刊は'96年だが、その当時のバックナンバーを見ると、今なら携帯電話でもブラウズできそうなくらいにシンプルなものだったことがわかる。 PC Watchの場合、そのポリシーとして、今も、編集スタイルが大きく変わっていないので、10年前の記事を表示しても、それほど古さを感じさせないのだが、日常的にブラウズされている現在のウェブは、当時からは比べようもないくらいにリッチな表現力を持つに至っている。 でも、10年前のアプリケーションソフトの持つ表現力が、当時のウェブと同じくらいにつたなかったのかといえば、決してそうではない。Windows 3.x上で動いていたMicrosoft Wordでさえ、すでにWYSIWYGに近い環境を実現していたし、さらにその10年前から、クローズドな空間ではあったが、パソコンを電話につなげば、掲示板やチャットを楽しむことができていた。 でも、インターネットは、その環境をいったんチャラにしてしまった。表現力は二の次でも、世界につながるということだけを免罪符に、メインストリームに躍り出て、それが人々に受け入れられてしまったのだ。 ●メディアの歴史も繰り返す メディアの歴史において、こういうことは珍しくない。文字と図版で表現力を高めた紙媒体は、ラジオの登場によって視覚的な要素をもぎ取られたのだし、テレビは、どこでも聞ける放送からモビリティを奪ってしまった。だからこそ、それぞれのメディアは、今も共存することができているわけだ。 携帯電話だって同じだ。言葉で話せば互いの気持ちはうまく伝わるかもしれないのに、あえてメールにコミュニケーションをゆだねる。メールにしたって、せめてパソコンでやりとりすれば、もっとリッチなコミュニケーションができるのに、せいぜいQVGA程度の画面と操作しづらいボタンでの文字入力でチマチマとやるわけだ。 言葉よりも文字がいいというなら、やりとりに時間のかかる手紙はともかく、FAXはもっともっとパーソナルなコミュニケーション手段になっていたはずだ。でもそうじゃなかったのは、モビリティである。人々は、いつでもどこでも簡単に、そして、相手の時間を束縛しないで、ポケットやポシェットに入って常に携帯できるデバイスでコミュニケーションする手段をとったのだ。 ぼくは、自分のメールアドレスに届くメールを、すべて携帯電話に転送しているが、古い人間なので、ちょっとややこしい用件だと、すぐにカバンからパソコンを取り出して、そちらで読んで返事を書く。でも、世の中の多くのユーザーは、メールは携帯電話で十分だと思っている。今のパソコンのメールクライアント環境に、大きな不便を感じていないのは、そのためだろう。 ぼくの場合、Amazonで本を一冊買うというだけでも、携帯電話などではやっていられない。購入作業は必ずパソコンだ。でも、世の中的にはそうじゃない。ここでもまた、新しく登場したメディアが、時代をいったん後退させていることがわかる。でも、新たな魅力が多少の不便を相殺し、あまりある環境を提供しているのだから、後退という言葉は正しくないのかもしれない。 ●Windows Vistaは過去をたちきる勇気を持てるか 今、L.A.で開催されているMicrosoftのソフトウェア技術者向けカンファレンス、PDCの真っ最中にこの原稿を書いている。会場にいて感じられる参加者の熱気は、ここ数年の同種のカンファレンスの比にはならない。おしりに火がついたという表現がまさにピッタリだ。 基調講演やゼネラルセッションでは、Windows Vistaがもたらす新たな時代の到来が繰り返し説かれ、派手なデモンストレーションごとに、場内に歓声がわく。特に、コードネーム「Avalon」で呼ばれていた「Windows Presentation Foundation」によるリッチなウェブアプリケーションは、ウェブの環境がようやく10年前のスタンドアロンに追いついたことを実感させてくれる。こうした新たなテクノロジーが新たな世代のソフトウェア開発者たちに受け入れられることで、パソコンのUX(User Experience)は大きく変わっていくだろう。 ならば、Windows Vistaは、かつてウェブが表現力を捨ててまで世界とつながることをとったのに対して、今、何かを捨ててまで、時代を変えようとしているのだろうか。この先、10年は使われていくであろう新たなUXの提案のためには、レガシーなUXを捨ててしまうのが手っ取り早いのだが、それでは、現在のパソコンエコシステムを支える企業ユースから総スカンを食ってしまうリスクを覚悟しなければならない。 つまるところ、Windows Vistaがやろうとしているのは、経験ではなく、直感で作業できる環境を提供することであり、それは、ユーザーに過去の経験を捨てることを強要し、新たなセンスを身につけることを要求するものだ。それは、机上の作業をデスクトップに投影するようなメタファという方便を使ったソフトウェアの作り方への訣別でもある。 メタファを捨ててどうなるかは、大きな賭けではあるが、たぶん、今回は、そんなことができる最後のチャンスになるだろう。捨てなければ何も生まれないことは、過去が証明している。少なくともぼくは、これから10年後に、メニューやボタンのUXでパソコンを使っていたくはないと思う。問題は、そう考えるユーザーが、いったいどのくらいるかということだ。できあがったものを壊すのは難しい。 バックナンバー
(2005年9月16日)
[Reported by 山田祥平]
【PC Watchホームページ】
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