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電車男を支える人々は、なぜ、匿名性が希薄なのか




 書籍の出版に引き続き、映画版が公開され、テレビ版も始まった。8月には舞台にもなるらしい。2ちゃんねるという“「ハッキング」から「夜のおかず」までを手広くカバーする”巨大な匿名掲示板で繰り広げられた空前絶後の純愛ストーリーだ。

●その他大勢の匿名性

    910 名前:Mr.名無しさん 投稿日:04/03/16 21:39

    >>904
    1つだけ言っておく。
    「相手の女性は一人だが、おまいには2chが付いている。」

    そういうことだ

 2ちゃんねるでは、書き込みメッセージのことをレスという。このレスは名言だとぼくは思う。映画の予告編のコピーにもこのメッセージが使われていた。「俺がついている」ではなく、「2chがついている」が、コミュニティを成立させ、これから始まるドラマを予感させている。

 『電車男』を知らない人は少ないと思うが、簡単に背景を紹介しておこう。ある日、電車の中で酔っぱらいの爺さんにからまれている女性を、勇気を振り絞って助けた秋葉系オタクの青年が、助けてもらったお礼にと、ティーカップを送ってきた彼女を、カップのブランドからエルメスと呼びつつ、掲示板住人の強力なバックアップの元、恋を成就させるというお話だ。実話かもしれないし、そうじゃないかもしれない。けれども、そんなことはどうでもいいことだ。

 映画を見てきた知り合いが、2ちゃんねる独特の『用語』がよくわからなかったと感想をもらした。そりゃそうだ。誤字誤読、当て字、誤変換などに出自を持つ特殊用語は、ある意味でIT用語よりもずっと難解だ。なにしろ、辞書には出ていないから、調べようがなく、コンテキストから判断するしかない。

 ぼくは、このストーリーの進行を、リアルタイムで見てきたわけではない。ただ、書籍の初出としてクレジットされているまとめサイト『男達が後ろから撃たれるスレ 衛生兵を呼べ』 は、とりあえず目を通していた。でも、これだけのボリュームをブラウザで読了するのはつらい。だから、きちんとフルストーリーを読了したのは書籍になってからだ。

 この書籍も、インターネット掲示板の雰囲気を最大限に醸し出すようにデザインされているので、決して読みやすくはない。新潮社のサイトには、その舞台裏が紹介されているが、やはり、アスキーアートや顔文字の表現に、相当苦労されたようだ。「そもそも校正できるのか」と漏らす赤ペン男-校閲マン-のコメントは興味深かった。

●電車男の語りかけはいつもおまいら宛

 書籍を読んだあとに、映画、そして、テレビドラマの初回を見た限り、書籍がインターネット掲示板の再現にずいぶん涙ぐましい努力をしているのに対して、映画とテレビでは、どうにもその部分がないがしろにされていると感じた。これは、メディアの特質上、仕方がないことなのかもしれないけれど、ぼくは、ちょっと気になった。

 主人公の電車男とヒロイン役。この2人が登場するのは、まあ、必然とするのはしょうがない。ところが、その住民たちが、はっきりと限定され、その人物背景までもが浮き彫りに描写されてしまっている。映画では電車男がもたらした愛と感動を享受した住民たち側のドラマさえ、エピソードとして挿入されていた。

 インターネットがここまで普及する前、掲示板といえばパソコン通信サービスのホスト上で提供されるものだった。もちろん、草の根掲示板もあり、ボランティアで運営される電子掲示板もたくさんあった。これらは、特定のホストコンピュータにつながったモデムに電話をかけ、離れたところからメッセージを書き込むというものであり、今でいうところの掲示板とは、その仕組みそのものが大きく異なっていた。

 電話回線がインターネットに代わっただけという考え方もあるかもしれないが、掲示板利用のためのIDは商用サービスなら利用料を支払う必要があったし、そのためには本名での会員登録が必要だった。草の根BBSでは、管理人にお願いして仲間に入れてもらわなければ参加することはできないものが多かった。そこには、匿名のようでいて、実は、身元がしっかりとわかっているという暗黙の了解があった。実際、その匿名性はなし崩しになり、オフラインミーティングなるものも頻繁に行なわれていた。そこには、『よく知らないけど、いつものあの人』という概念があった。ぼくは、『電車男』の映画とテレビを見て、パソコン通信時代を思い出してしまった。

 テレビ版には、こんな比喩がある。電車男がメッセージを書き込み、エンターキーをパシンと叩くと、日本地図が表示され、東京から、日本各地にメッセージが配信される様子がアニメーションで展開される。これはどう考えても逆だろう。これをやるなら、日本各地から東京にメッセージを取りに来るように構成しなければならない。2ちゃんねるの掲示板を格納したホストがどこに設置されているかは知らないが、少なくとも、住人達は、それぞれが自分の意志でメッセージを読みにくるのではなかろうか。メッセージを残せば、誰かが読むだろうが、その誰かが誰だかはわからない。

 インターネット掲示板の匿名性を希薄にすることは、映画やドラマの演出ポリシーなのだろう。その点に関する妙な違和感をのぞけば、映画はとても楽しめたしよくできていた。きっと、テレビドラマも最終回までちゃんと見るだろう。

●性善説でとらえる匿名社会

 電車男の感動は、匿名掲示板に集うスレ住民たちの強力なバックアップで彼が恋を成就させる点にある。これが、仲良しグループであってはならないのだ。互いに顔も見たことががなければ、声も知らない、年齢もわからない。だからこそ、感動であり、冒頭のメッセージはそのことを象徴している。でも、少なくとも、書籍では、その主語は『2ちゃんねる』になっていたが、映画とテレビでは『俺たち』くらいにトーンダウンしている。紛れもない主体がそこに存在しているのだ。

 さすがに、映画やテレビでも、それぞれの住民が互いを認識しているようには描かれてはいない。あくまでも住民総体と電車男との応酬のカタチがとられている。電車男のヘルプは誰だかわからないけれども自分を助けてくれるに違いない不特定多数の匿名住民に対して向けられている。でも、その事実が、映画やテレビでは、個々の住民の具体的な登場によって台無しになってしまっているのだ。

 インターネットの匿名性は、犯罪の温床であるとするような世論も強い。匿名性をいいことに、誹謗中傷は日常茶飯事で、平気で人を傷つけるようなメッセージもいたるところで見かける。インターネットに光と影があるとすれば、これは、ダークサイドだといえるだろう。そんな暗闇にも、年端のいかない子どもが無防備なままで簡単に飛び込めてしまう。これは一種の社会悪であるという論調もある。

 でも、電車男を支援する住民は基本的に『いいひと』たちばかりだ。だからこそ、そこに感動が生まれる。性善説で展開できる匿名社会もあることを表現しきれなかったストーリー展開は、ちょっとだけ残念だった。知っている人にはわかるだろうけれど、知らない人には想像がつかない。不特定多数の匿名集団を演出手法として表現できるまでには、まだ、作る側も、見る側も未熟で、時代に追いついていないということなのだろうか。

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(2005年7月15日)

[Reported by 山田祥平]


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