山田祥平のRe:config.sys

遺品としてのデジタルデータ




 個人情報というものは、その人が生きている間のみ個人情報として扱われ、死を迎えたとたんに極私的なものではなくなってしまう傾向にある。遺品が公開されることを、本人は望んでいたのかどうか。それは誰にもわからない。

●壊れたケータイはモノを言わない

 先日のJR宝塚線脱線事故現場では、たくさんの携帯電話が遺品として見つかっている。その多くが半壊しているため、内容を読み出せず、遺族はつらい思いをしているとも聞く。携帯電話キャリア各社は、特別措置として、遺族のためにメールなどの内容を吸い上げて読めるようにすることを検討中だと新聞で読んだ。通信の秘密を厳守しなければならない通信事業者としては判断は難しいだろう。技術的にはそう難しくなくても、事業者としてやっていいことなのか、いけないことなのかは悩ましい。こうした事態に備え、今後は、端末の購入時に、契約者の死亡時に端末内のデータの扱いをどうするかのチェック欄ができるようなことも考えられる。キャリア側としても、そのデータを吸い上げた結果、別のいざこざに巻き込まれては困るだろうからだ。

 実は、親戚に不幸があって、先週末、葬儀に出席してきた。この年になると、少しずつ、見送る機会も増えてくるわけで、そのたびに、自分の死について考える。自分自身のことを考えても、まだまだだと思っていつつ、少なくとも、折り返し点には位置しているはずだと実感する。

 今は、誰かが亡くなったときの訃報は電話よりもメールで届く場合が多くなった。携帯メールであれ、パソコンメールであれ、大量の相手に対して、一度に正確な情報を伝えることができる点で優れている。ただ、受け取る側はいいとしても、それを出す側の作業量は決して少なくない。

 知らせるべき相手のメールアドレスを、周辺に残っている年賀状や名刺などの遺品から調べ、それを手入力して、お知らせする。たとえ、その作業を近しい間柄の人に頼むとしてもたいへんだ。もちろん、漏れもあるだろう。知らせなければならない人に、そのメールが届かない可能性もある。故人が毎年の年賀状や名刺はスキャンしてパスワード保護されたパソコンに保存し、現物は捨ててしまうような方針の人であればお手上げかもしれない。そういうことは十分にありえる話だ。

●訃報を伝えるためのアプリケーション

 往復の新幹線の中でいろいろなことを考えた。たとえば、自分の死を真っ先に知るであろう人物数名を選び、特定のメールアドレスを教えておく。自分が死んだときに、彼らがそのメールアドレス宛に訃報を送ると、あらかじめ登録したメールアドレスにそれが送られる。いわゆる、メーリングリストである。フールプルーフのために、いったん返信が戻ってきて内容を確認、それでよければ、そのまま返信すれば、実際のメールが送られるといった仕組みも必要かもしれない。もちろん、宛先はBCCとして配信される。だから、メールを送信した本人は、訃報メールが誰に届いていて、誰に届いていないかを知る術はない。それをよしとするかどうかも問題だ。

 だが、この方法では、きちんとメールアドレスをメインテナンスしていないと、半分近くがUser Unknownなどで戻ってくるだろう。となると、プロバイダーのサポートも必要になる。たとえば、普段利用しているSMTPサーバーで、直近にメールを配信した宛先1,000カ所を記憶していて、そこにもメールを出すというような仕掛けだ。遺族が肝心のメールアドレスを失念している可能性もある。それを回避するためには、本人が普段使っているメールアドレスに、なんらかの記号や文字列を付加したアドレスを用意することで、わかりやすくするといった手だても必要かもしれない。

●ITが個人情報を隠匿する

 ぼくらの暮らしている世の中は、この20年くらいで大きな変化を遂げた。その変化を加速させたのは、いうまでもなくITだが、そのおかげで、本来なら自然に得られた情報が隠匿されてしまう世の中ができあがってしまった。

 書簡や日記は、故人を知るための貴重な材料だ。大作家なら全集などにも収録されているし、死後何十年もたってから、蔵などから書簡や日記が見つかって大きな話題になることもある。だが、書簡はメール、日記はパスワード保護されたHDD内のファイルというのが当たり前の現代、こうしたことが将来起こる可能性は低い。今はBlogが大流行だが、あれは他人に読んでもらうための日記である。他人の目にふれることを前提に書かれている。もっとも、遺族は、故人がBlogをつけていたことなど知らない可能性もある。とかくややこしい時代である。

 小学生までが携帯電話を持つようになった今、いわゆる固定電話があまり使われなくなり、子どものいる家庭では、息子や娘の交友関係を把握しづらい状況になっているとも聞く。固定電話しかなかった時代には、電話というものは文字通り、固定された『場所』にかかってくるものであり、その『場所』にいる誰かがとり、目的の相手を呼び出すものだった。個人はそこに呼び出される対象にすぎなかったのだ。だからこそ、親は子どもに電話を取り次ぐたびに、相手の素性を想像し、その交友関係を把握することができたわけだ。その感覚が今は希薄だ。これもまた、ITがもたらした歪みのようなものだろう。かと思えば、会話のなかった父娘が、メールでコミュニケーションするようになったという面もあるのだから、いちがいにITを悪者にはできない。

●個人情報を手元に置かない時代

 いずれにしても、情報のデジタル化は、その情報が表に出にくい状況を作る。これからはもっとその傾向は強くなるだろう。なぜなら、重要な個人情報を、いつ壊れてもおかしくない、誰がさわるともわからない、あるいは、盗まれる可能性もある無防備なパソコンに保管しておくといった危険なことがいつまでも続くとは思えないからだ。きっと、大事な情報、人に見られたくない情報は、確実にパスワードなどで守ることができ、きちんとしたバックアップ体制のある個人用のデータセンターなどに置かれることになるだろう。

 ちょっと詳しい人が、ちょいちょいと操作しただけで、知られたくない情報がごっそりと出てくるようでは安心できない。携帯電話も同様で、メールはもちろん、発信履歴、着信履歴なども重要なプライバシーだ。これは、本人のみならず、相手の問題でもある。だからこそ、携帯電話を紛失したときに遠隔地からロックできるようなサービスが登場するわけだ。こうして、かつてなら知り得たことが永遠の秘密として葬り去られることになるわけだ。

 葬儀の会場には、故人が生前お世話になった人々がたくさんかけつけていた。故人にはぼく自身、子どものころからかわいがってもらっていたが、その会場では、ぼくのまるで知らない故人がいたことを知った。遠く離れたところで別々の暮らしを営む以上、知らない世界があるのは当然だ。葬儀の会場で、そういう世界を垣間見て、ぼくはちょっとうれしく思った。故人はきっと幸せな晩年を過ごしたのだろうと感じたのだ。

 逝去から1週間がたったけれど、その悲しい事実を、未だ知らない別の世界の住人もいるのかもしれない。メールでしか連絡をとっていないけれど、実に仲のよい友人の存在など、将来は、そういうことが当たり前のように起こるようになるのだろうか。でも、それをIT時代の象徴とするべきではない。何らかの方法で解決するのがITではないだろうか。

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(2005年5月20日)

[Reported by 山田祥平]


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