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相似を逸脱しつつあるコンテンツ



 朝起きてから寝るまでの十数時間。ぼくらは生活の中で、限りない量のコンテンツに触れそれらを消費する。コンテンツはオリジナルのコピーだが、そのことは了承済みで、オリジナルとは寸分違わないものとしてぼくらは多くのコンテンツを扱う。そこでは、コピーは新たなオリジナルであるというのが暗黙の了解だ。

●コンテンツと過ごす一日

 午前11時から都心のホテルで行われる記者会見に出席するために部屋を出る。出がけにポストから毎月3,925円で定期購読している新聞の朝刊を取り出し、折り込まれたチラシをゴミ箱に投げ入れて駅に向かう。電車内で目を通し終わった朝刊は、よほどのことがない限り、目についたごみ箱に捨ててしまう。ただ、最近は、このごみ箱がなかなか見つからなくて、結局自宅まで持ち帰ってしまうことも多い。どっちにしても、コンテンツとしての新聞は、新聞紙となり、資源としてリサイクルされることになる。

 記者会見終了後、駅の売店に立ち寄り、その日発売のコミック誌を2冊買う。1冊は週刊少年誌230円、もう1冊は月2回刊の青年誌260円だ。次の打ち合わせまで時間に隙間があるので、ターミナル駅周辺で映画を見ることにする。目についたチケットショップで1,300円の特別鑑賞券を手に入れ、映画館で2時間ほどを過ごす。

 再び地下鉄で移動、某社にて打ち合わせを終えて、地下鉄、私鉄を乗り継いで自宅のある駅に到着。このころには、駅の売店で買ったコミック誌2冊はすでに読み終えて手元にはない。さらに、駅前の書店に立ち寄り、580円の雑誌を一冊購入し、自宅に戻ろうとするも、ついつい、途中で行きつけの飲み屋に立ち寄る気になり、そこで、その日の夕刊と、購入した雑誌に目を通す。

 ようやく自宅にたどりつき、玄関ポストをのぞくと、一昨日あたりにamazonで注文しておいたCDと書籍が届いていた。CDが3,059円、書籍は2,500円だった。ポストの中には夕刊も入っていたが、すでに飲み屋で目を通した後だ。部屋に戻り、予約録画したままになっていたテレビドラマを2本続けて見る。

 とまあ、典型的な一日はこんな具合だろうか。もちろん、こんなにコンテンツにお金をかける日ばかりではない。映画どころか、コミック、雑誌を1冊も買わない日だって少なくない。逆に、日中は美術館や写真展をのぞいたりすることもある。また、これら以外にもWebでニュースを読むなど無料のコンテンツは身の回りにあふれている。

 その一方で、コンサートや芝居にでかけることは少ない。興味がないのではないが、さすがに時間がいくらあっても足りないのと、時間が限定されてしまい、スケジュール合わせが難しいため、足が遠のく結果になっている。さらに、テレビをライブで見ることは少なくなってしまっている。

●デフォルトメディアとコンテンツ

 パソコンは、こうした多様なコンテンツを、まがりなりにもひとつのデバイスで楽しむことを可能にした。紙、コンパクトディスク、スクリーン、ブラウン管といった、あらかじめ想定された既定のメディアで見るしかなかったこれらのコンテンツは、今、多くのものが、パソコンのモニタ画面で扱える。

 ただ、過去において、われわれが受け取る複製コンテンツは、オリジナルのほぼ相似形コピーであったと思う。たとえそれが劣化コピーであったとしてもだ。音楽コンテンツでいうなら、高級オーディオセットで聴く場合、ミニコンポ、ポータブルプレーヤーからカーステレオまでいろいろだ。そして、それぞれに味わいがあり、ぼくらは、思い思いの方法で音楽を楽しんだ。ハイエンドオーディオで聴くことが、必ずしも最高であるとは限らず、ひょっとすれば、周波数特性は最低に近いであろうAMラジオで聴く方が、ある種の雰囲気を得られるといった経験もあるはずだ。

 ところが、パソコンでこれらのコンテンツを楽しむとき、果たして、ぼくらは、「相似」を得ることができているだろうか。もしかして、似て非なるものしか得られていないのではないかという危惧を感じることがある。

 新たに登場したデバイスによって、たとえば、ビデオデッキでいうなら、オンエアの時間にとらわれないタイムシフトを可能にしたし、繰り返し再生はもちろん、CM飛ばし、場合によっては、音声付きの数倍速視聴もありの世界になった。なのに、テレビ放送は、こうしたデバイスを使い、かなり特殊な方法で見たとしてもこうした危惧を感じることはなかったように思う。

●エンコードとデジタイズ

 現在のテレビ放送の標準形式であるNTSCは、毎秒30フレームのインターレースで見たときにもっとも美しいと言われている。けれども、パソコンの画面で楽しむテレビ放送はそうではない。もっとも、一般的なテレビ受像器でさえ、プログレッシブ方式をサポートするのが当たり前になってきている今、NTSCが既定する本来の映像を見る機会は少しずつ減少しつつある。

 テレビ放送に使われる素材そのものも、場合によってはMPEGエンコードされたものだ。そして、ぼくらが完パケとなった映像を目にするまでに、非可逆の圧縮方式であるにもかかわらず、いったい何度、エンコード、デコードが繰り返されているのか。ぼくらのまなざしは、その映像に慣れきってしまいつつある。ちょうど、天然出汁の味噌汁よりも、かつお風味調味料で作った味噌汁の方に味わいを感じるようなイメージだ。

 小説を、新刊本で読んだ場合と文庫本で読んだ場合では、そこから得られる印象に大きな違いはないように思う。ところが、その小説が文字列としてパソコンの画面に映し出されるときに感じるちょっとした違和感。その違和感の正体は何なのか。エンコード、デコードの繰り返しとデジタイズ。パソコンは、これから、これらの行為によって醸し出される違和感を、ひとつずつ解決していかなければならない。ぼくらが違和感を感じなくなってしまう前にだ。


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(2005年2月4日)

[Reported by 山田祥平]

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