現在のパソコンを考える上で、どうしても欠かせない要素として、アラン・ケイが1977年にIEEE Computerに寄稿した論文「Personal Dynamic Media」がある。当時、アラン・ケイは、ゼロックスのパロアルト研究所にいて、ダイナブックの研究に携わっていた。この論文は、数年間にわたるその研究活動の概要をまとめたものだった。 ダイナブックの構想に際して、ケイは書物とのアナロジーを選択した。それが、ダイナミックな本としてのダイナブックにつながっていく。そして、メディアとしてコンピュータそのものを見たときに、他のすべてのメディアになることができるとし、過去においては教師というメディアにしか為しえなかった双方向の会話を可能にする新たな「メタメディア」の可能性の壮大さが人を駆り立てずにいられないとする(原文)。 この論文は、まさに、古典中の古典だが、幸いなことに、日本語に訳され、鶴岡雄二翻訳 / 浜野保樹監修「アラン・ケイ」(アスキー、1992年)として現在も入手できる。また、本家本元であるIEEE Computer Societyのデジタルライブラリーにはバックナンバーは見つからないが、ニューメディアに関する過去の論文を集めた「New Media Reader」という書籍がMIT Pressから出版されていて、そのオフィシャルサイトにPDFファイルが置かれているので、そこで原文にあたることができる。 ●ダイナミックな書物としてのダイナブック ケイはダイナブックに書物とのアナロジーを見いだしたわけだが、いみじくも、この書物こそが、「コピー」の権化だ。たとえば、英語で、「この本は100万部売れた」というときには、「One Million copies of the book were sold.」というように、「部」を意味する単語として「copy」が使われる。もちろん「Copyright」もこれにまつわる権利だ。 活版印刷の父であるグーテンベルク(Johannes Gutenberg 1400頃~68)が印刷機を制作したのが1450年頃で、1500年を過ぎるとアルダス・マヌティウス(Aldus Manutius 1450~1515)が「八折り判(オクタボ 8vo)」と呼ばれるコンパクトな出版物を普及させている。22×15センチ程度のオクタボは、ほぼA5サイズ相当。いわば、今の文庫本の元祖みたいなものだ。それまでの書物が大型汎用機であるとすれば、オクタボは今でいうところのノートパソコンのようなものだろうか。その登場で、いかに書物が身近な存在になったのかがわかる。 いずれにしても、こうした技術の発達によって、ぼくらの目に触れるコンテンツは、そのことごとくが「コピー」になっていく。身の回りをよく観察してみよう。文字にしても絵にしても写真にしても音楽にしても映像にしても、あまねく情報は、そのほとんどがコピーであり、コピーに触れることで、ぼくらは、オリジナルを知った気になっている。そして、そのコピーを華麗に操るための道具が、ケイによるダイナブックだったのだ。 ●コピーのコピーはオリジナル 考えてもみてほしい。今、手元にあるパソコンに内蔵されているハードディスクの中に、いったい、どれほど、そこにしかないデータがあるだろうか。少なくとも、今、この文章を書いているパソコンのハードディスクは、OSであるWindows XPを構成する種々のモジュール、大量のアプリケーション、録画したテレビ番組のデータが総容量の大部分を占める。これらはすべて他者が作ったデータだ。 受け取った電子メールは相手の送信済みアイテムに残っているだろうし、もちろん、自分で書いた電子メールは相手の受信トレイに届く。ぼくの場合、書き終えた原稿は電子メールで出版社などに送るので、原稿ファイルでさえも複数存在する。さらに、ほとんどすべてのパソコンが、インターネットにつながっている現状で、そこにしかないと思いこんでいるデータでも、本当に、そこにしかないと断言することができるだろうか。 アナログの時代には、オリジナルのコピー、そして、そのコピーのコピーは新たなオリジナルを生むという図式があった。たとえば、写真においては、ネガの印画紙へのプリントは光の鉛筆による痕跡のコピーだが、それは、まさに、新たな創造だ。 いみじくも、ヨセミテの風景写真で知られるアメリカの写真家アンセル・アダムス(Ansel Adams 1902~1984)は「ネガは楽譜、プリントは演奏」といったそうだが、まさにその通りだと思う。でも、デジタルの時代はちょっと違う。オリジナルとコピーの間には、1bitたりとも相違がないのだ。いや、それ以前に、コンピュータはコピーしか扱えないという宿命を背負っている。その背景は、前に「サランラップごしのコピー」として言及した通りだ。 ●コピーを実感する瞬間 パソコンで扱っている対象がコピーであると実感するのは、フィルムをスキャナで読み取っているときだ。ぼくは、ここ数年、再びカメラを持ち出し、フィルムを使って写真を撮るようになった。デジカメ一辺倒になり、一時は冷蔵庫に保存してあった大量の期限切れフィルムを処分したりもしたのだが、思うところあってモノクロフィルムを詰めたカメラで写真を撮っている。 シャッターを切ると、フィルム上の銀塩には光の痕跡としての潜像が残り、それが現像処理によって黒化する。まさに、光によるひっかき傷だ。現像済みのフィルムは6コマごとのスリーブには切断せず、長巻きの状態で戻してもらい、約36コマを一気にフィルムスキャナに読み込ませる。スキャナにはICEと呼ばれる機能が搭載され、光センサを使ってフィルム上の傷やゴミを検知、それを除去してくれるのだが、現像時に色素だけを残して脱銀されるカラーリバーサルフィルムやカラーネガフィルムとは違い、黒化した銀がフィルム上にそのまま残っているモノクロフィルムでは、このICEが使えない。銀と傷やゴミを区別することができないからだ。 その結果、スキャン済みの画像にはゴミや傷の跡が散見される。それを見るたびに、ああ、これは、コピーなんだなと実感するのだ。あまりにもゴミがひどいときには、スキャンをやり直すが、たいていは、そのままだ。かくしてできあがった16bitのTIFFファイルは1コマあたり47,232,188Byte。フィルム一本あたり、約1.5GBの容量でハードディスクを圧迫する。 でも、手元にはまぎれもないオリジナルとしてのネガが残っている。だから、万が一、そのデータが、なんらかのアクシデントで消えるようなことがあっても、めんどうくさいながら、スキャンをやり直せばそれですむ。 以前、花巻に行ったときに、宮沢賢治記念館で「雨ニモマケズ手帳」を見たことがある。もちろん、オリジナルではなく複製だ。オリジナルがあるからこそコピーができるという、この当たり前のことが、デジタルの世界では通じない。 課せられた役割さえ果たせるのであれば、扱う対象がコピーであろうがオリジナルであろうが関係はない。パソコンは、そうした前提の上に成り立っているコモディティだ。そんなパソコンから、役にたつとか、便利だとか、楽しめるといった役割を奪ってしまったら、そこにはいったい何が残るのだろうか。ぼくは、何かが残るはずだと思っているのだが、その何かがまだよく見えないでいる。 バックナンバー
(2004年6月11日)
[Reported by 山田祥平]
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