■空気ペン、ナビ下駄、紙リモコン、アイコンステッカー、etc…… 「コーヒーカップにコンピュータを埋め込んで何が楽しいか。それを考えるのが僕の研究課題です」。こう語るのは玉川大学工学部電子工学科の椎尾一郎教授である。ユビキタス・コンピューティングや実世界指向インタフェースを研究テーマとし、引出しや履物などに工夫を施した「日用品コンピューティング」を提案している。 椎尾はこれまでに、特定の場所に文字を書く「空気ペン」、ナビゲーション機能を持つ「ナビ下駄」、壁の中を透視して見せてくれる「Scroll Browser」、カメラ付き収納家具「Strata Drawer」などを開発してきた。 口で言うよりも画像を見てもらったほうが早い。まずは椎尾研でこれまで作ったものを紹介しよう。
ユビキタス・コンピューティングの考え方の基本は、今後、計算機のコストが限りなく安くなることによって単機能かつ埋め込み型となり、目に見えない存在として我々の生活をサポートしてくれるようになる、というものだ。コンピュータの複雑さは消滅し、人々は、あたかも日用品を使うかのように全く意識することなくコンピュータとネットワークの恩恵を受ける。今日、汎用のパソコンを使ったり、携帯電話や携帯端末でメールを読み書きしているのとは対照的だ。 そのような誰にでも使えるコンピューティング環境を実現するためには、従来の日用品の機能と使い方に対する知識をうまく利用しつつ、コンピュータによる機能強化をデザインしてやる必要がある。使うために考え込んだりしてしまうものでは話にならない。普段、日用品を使うときの動作が、そのままコンピューティングに繋がるようなものでなければならない。そこに実世界指向、あるいはユビキタス・コンピューティングのミソがある。 たとえば引出しを閉めるだけで写真を撮り送ることのできるデジタル引出しや、床の上を動かすだけで床下を覗けるバーチャルグラスボートなどはその一例だ。椎尾も「実際の世界に関する知識をどう使うかということはインタフェースデザインの基本的テクニック」と語る。 特に、バーコードのように既に普及した安価な技術を利用するのが椎尾の特徴だ。たとえば空気ペンにしても磁気センサを使えば精度は遙かに上がるがコストは高くなるし、ごくごく限られた範囲でしか使えない。そこで空気ペンではRFID(Radio Frequency Identification)とジャイロを使った。どこでも簡単に安く。それがねらいだ。「貧乏人ARと言われました」と笑う。 ■「技術」よりもむしろ「知恵」が重要 現在、コンピュータのユーザーは数千万人程度と見積もられているのだそうだ。それに対して日用品コンピューティングが普及した環境下でのユーザーは、数十億人にもなる。もし本当に日用品の中にコンピュータを入れ、日常生活を支援することができるようになるのであれば、情報産業従事者にとって非常に大きな市場が潜在していることになる。ホームサーバーと言われている家電も徐々に市場に投入され始めたが、そのアプリケーションにもなるだろう。 だが椎尾も、現在開発しているデバイスが、そのまま普及していくと考えているわけではない。 「将来、そのへんの引出しでWebやメールが見られるようになるかもしれない。でもそれは多分間違いで、現在は想定されていない用途での使い方で普及していくんでしょうね。PCが普及し始めたとき、自分の家でプログラムができると喜んでいたでしょう。でも実際にはそれでPCが普及したんじゃないですよね。Webが見られる、メールが見られる。メディアとしてのアプリがあって、初めて爆発的に普及したわけです。ところが当時、それは見えてなかった。同じことがユビキタス・コンピューティングのときにもあるかもしれない」 普通の人が使うとすれば、必要性に対する基準は、これまでのPCとはくらべものにならないくらいシビアになる。ユビキタス・コンピューティングやこれからの情報機器に携わる人間は、これまでより遥かに真剣に使い勝手や必要性、幅広い意味でのデザインに知恵を絞る必要がある。 「でも逆に、うまく当たれば非常に多くの人が受け入れてくれる。だからやりがいはあるところだと思います」 何がユビキタス・コンピューティングのキラーアプリになるのかは、まだ誰にも見えていない。こんなことができる、あんなことができるといった、アイデア出しの段階である。 単に面白いもの、便利なものを探るだけではすまない。プライバシーも重要な問題だ。たとえば何気なく写真を撮る、記念写真を「家」が撮影するといったアプリは色々考えられるし、ニーズもあるだろうが、下手にバシバシ撮るわけにはいかない。例として子どもがケータイで写真を撮ったら自動的にお祖母さんのところに送られるといったアプリを考えてみよう。家の中をところかまわず撮影されると困るお母さんもいるのではなかろうか。 だが椎尾の引出しならば引出しの中しか撮影しないわけだから、その手の問題は発生しない。「いつでも、どこでも」も大事だが、同時に「ここだけ、あなただけ」を適切にコントロールするインタフェースを設計することが、コンピュータが環境に溶けこんでしまうユビキタスコンピューティングにおいては重要な課題となる。「技術というよりむしろ知恵が必要」だという。 ■「気の利いた」デバイスを目指して 椎尾は、もともとIBMの研究所にいた頃から「ハードとソフトの境界みたいなところに興味があった」という。どういった理由でユビキタスや実世界指向インタフェースに手を染めることになったのだろうか。 「ちょっとしたハードウェアをソフトで補ってあげて、何か『気の利いたモノ』を作るのが好きだったんですよ」 最初に作ったそれっぽいものは、「ViewPoint」というプレゼンテーション用のツールだった。プロジェクターで投影されたスクリーン上のボタンを、指示棒の先に付けた光センサで読みとって、ディスプレイ上のボタンを識別し、押してやるというものだ。 次にそれを応用して、プロジェクターで投影する先を机の上に変え、その上の実オブジェクトと仮想オブジェクトとを結びつけて操作するデバイス「InfoBinder」を作成した。このあたりから研究が実世界指向、ARなどへとシフトしていった。 「スクロール・ブラウザー」や「ヴァーチャル・グラスボート」など、マウスやトラックパッドによる操作対象としてではなく、ディスプレイそのものを移動させて画面をスクロールさせる「スクロール・ディスプレイ」は、もともとは携帯端末のような小さなコンピュータのインタフェースとして考案したものだ。
「小さいディスプレイを持っているコンピュータの下にマウスをつけて、動かすとそちらが映るというものを作ったんです。それを学会で発表したときに、ある先生が ARやVRに使ったらどうかと提案してくれて。最初は絶対座標が採れないからだめだと思ってたんですけど、なんか付ければできるなと」。 それでバーコードやRFIDタグと組み合わせてみたというわけだ。 スクロールではなく、ディスプレイそのものを動かして表示を切替えるインタフェースは、たとえば地図や新聞の閲覧などには便利かもしれない。対象に対する知識をユーザーがある程度もっている、つまり、閲覧するドキュメントのレイアウトや、どこに何が描かれているかあらかじめ見当がついている場合は、パッと動かすほうが早い。何の知識もないものを見る場合はまた別だが、随時切り替えができると便利だなと思う。何より、現実には何もない場所をゴロゴロ転がすと何やら画像が現れるというのは、別の世界を覗きこんでいるようで、どこか楽しい。 椎尾は昨年、ジョージア工科大学に客員として赴任し、アウェアホーム・プロジェクト( http://www.awarehome.gatech.edu/ )に参加した。アウェアホームとは家庭内でのコンピュータ利用の研究を目的としてキャンパス内に建てられた家だ。中はネットワーク配線が張り巡らされていることと天井部分がフリーアクセスになっていて、センサーそのほかの設置が容易であること以外は、ごく普通の家となっているという。そのなかで、たとえば人間の位置情報を取って活用したり、台所での作業を支援するためのユビキタスなアプリケーションが模索されている。上記のいくつかは、その中でも実証実験を行なった。 現在は研究の再構築中だという。最後に、学生が作っているものをいくつか見せてもらった。
日用品がインターネット上の情報をさりげなく呈示してくれれば便利だと椎尾は言う。たとえば目覚し時計がネット上から天気予報情報を取って来れれば「明日、雪が降りそうだったら30分早く鳴らす」といった設定を行なうことも可能だ。設定そのものも、ネットワーク接続されているなら、PC上のGUIで行なえる。 同様に、降水確率によって色が変わる傘立てや、バスや電車の時刻を表示するトイレや玄関のドアといったものも考えられるだろう。もちろん、携帯電話などに情報を飛ばすといった処理も可能だ。だがユビキタスコンピューティングの考え方の基本は、人間の周囲の環境そのものを賢くして、人間本人は何も持っていなくてもコンピューティングの恩恵を受けられるところにある。現実的には両者の接点が落ち着き先になるだろうが、今後、コンピュータの市場が日用品へと広がるだろうことは間違いないと椎尾は考えている。 「Web上の情報を生活の中でうまく見せてくれるシステムです。ほかにもきっと、いろいろバリエーションがあると思うんですよね」 賢い紙に賢いペン、賢い収納に賢い机、賢いコーヒーカップに賢い皿。生活の中に、文字通り「溶けこんだ」形でコンピューターが存在し、今までの日用品が「ちょっと気の利いたもの」になる――。そんな時代が、遠からずやってくる。アイデアも重要な要素だ。 具体的な未来の姿はまだ、よく見えないけれど。(敬称略) □椎尾一郎教授のサイト
(2003年2月6日)
[Reported by 森山和道] |
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