第141回:「我々の得意分野からパーソナルユーザーにもアピールしたい」
~日本IBMインタビュー



 今年から日本IBMがPCハードウェアのマーケティング方針を転換した。これまで企業向けとは別に展開してきたコンシューマ向けのPCブランドを見直し。ノートPCの分野ではThinkPad iシリーズが姿を消し、企業向けのThinkPadへと製品ラインが一本化されることとなった。

 モバイルワーカーのためのビジネスツールとして高い評価を受けてきたThinkPadシリーズは、ビジネスツールとしての究極を、企業向けの各種ソリューションサービスとともに提供することで追求する。その背景には、ビジネスツールとしての良さを追求することで個人で利用するPCとしての質も高められるとの考えがある。

 日本IBMPC製品企画&マーケティング事業部長の堀向功氏と製品戦略担当スタッフマネージャの竹村譲氏、パーソナルシステム事業部マーケティングマネージャの中林千晴氏に話を伺った。

●企業向けフォーカスの背景

 昨年末商戦に向けた製品あたりから、ThinkPadはコンシューマ向けとしてラインナップされている製品も、「家庭向け」から「個人で購入するビジネスツール」という性格に振ってきていた。今年に入ってから、より企業にフォーカスしたマーケティング戦略へとフォーカスを絞ってきたのも十分に予測できたことだろう。

 元々、ThinkPadは個人で購入するユーザーであっても、その使い方はビジネスユーザーと重なるものだった。堀向氏はまず、企業向けにフォーカスした製品戦略へと向かう背景について話してくれた。

 「IBMブランドのPC全体を見ると、全体的にハードウェアビジネスの減速は否めません。たとえば中国は毎年50%以上の成長率でPC市場が伸びてきましたが、昨年は24%の伸びにとどまっています。しかし、それならばまだ投資する価値はある。対して日本は相当に苦しい状況にあります。特に昨年後半の落ち込みは非常に大きかった(堀向氏)」

 それでもノートPC比率の高い日本市場ではハードウェアに投資する価値も出てくる。なぜなら「中国はデスクトップPCの比率が非常に高い。対する日本市場はノートPC比率が50%以上あるからだ」と堀向氏は話す。

 つまり、今のところは日本市場でハードウェアに対する付加価値が評価される環境にあるわけだ。しかしビジネスは短期的な展望で展開するものではない。堀向氏は「ノートPCのコモディタイズ(日用品化)はさらに進んでいくだろう。将来、ノートPC市場でも非常に厳しい市場環境になる」と予想する。

 コモディタイズが進めば、ハードウェア間の違いは評価されにくくなる。そうなると、機能や使いやすさといった要素よりも、一定水準の機能や性能をいかにローコストに実現するかが、製品を選択する上で重要な要素になってくる。さらに追い打ちをかけているのが、日本経済の不調だ。

 「日本企業の株式時価総額は毎日急激に目減りしている。アジア全体を見回しても、台湾が復活してきているのとは対照的だ。ある経済誌で46カ国の国際競争力の評価を毎年行なっているが、日本は'96年には1位という評価だったのに、今年は26位まで落ちてしまった。特にベンチャー企業の資金調達や社会的な受け入れやすさなど、新規に起業する環境評価は最下位。非常に閉じた市場環境で、新しいものを受け付けないという評価もある。研究開発力に関しては未だに2位だが、その力が解放されにくい環境にあるのが問題だと思う。復活までにはまだ時間がかかるだろう」と堀向氏は見る。

 これまでIBMのノートPC事業は日本が主導し、その中で小型ノートPCなどが生まれてきた背景がある。ワールドワイドでは受け入れられなかったB5サイズ以下の製品が、それでも登場し続けてきたのは、日本からの強い要望があったためだ。しかし、ここまで市場環境が厳しくなってくると、そうも言っていられなくなる。

●日本IBMが提供できることは何か

 巨大なビジネスを大きな投資で展開するIBMとしては、ハードウェアとしてのPCビジネスだけに、これ以上は強くコミットできない。これが日本IBMの出した結論だったようだ。

 「厳しい市場環境の中で、我々が何を提供できるかを考え直した。単に安いPCを作るだけであれば、別にそれを得意とするベンダーがいる。見つめ直した結果が、ハードウェアとソフトウェアを組み合わせたトータルソリューションを顧客にオファーするということだ。現在、不景気と言われてはいるが、企業内のIT化はかなり進歩し、現在も進化している途中だ。企業内のITシステムの中で、PCをどのように便利に使っていけるかを積極的に提案する(堀向氏)」

 本連載の読者は、多くは個人ユーザーと考えられるが、ユーザー層は2つに分かれると思う。たとえばデジタル家電の普及によって浸透したマルチメディアプラットフォームの中で、中心的な役割をするPCのユーザー。ソニーが掲げた「AV/IT」というコンセプトに重なるユーザー層である。そしてもう1つが個人で仕事の能率を向上させたり、生産性を向上させる道具としてノートPCを活用するユーザーだ。日本IBMは後者のユーザーに向けて、ハードウェアとソフトウェア、両方のソリューションを提供する。

 中林氏は「ユーザーの利用形態をいろいろ調査した結果、コンシューマもビジネスユーザーも、使い方や性能などに大きな違いがないことが判った。ビジネス向けにフォーカスしたからと言って、個人用途に適さないわけではない。ビジネスで使いやすいノートPCは、個人ユーザーに対しても良いオファーになります。たとえば軽量かつ堅牢性、耐久性や使いやすいキーボードとポインティングデバイス、バッテリ持続時間などは、ワイヤレス環境で持ち歩くビジネス向けのノートPCには必須の要素ですが、これらはすべてパーソナルユースでも必要とされる性能です」と話す。

 ハードウェアに対して、これまでのように積極的に差別化を行なう技術を投入していくのではなく、ソフトウェアやサービスと連携させたトータルのソリューションに重心を移すということなのか? と水を向けると、堀向氏は「いや、ハードウェアを軽視するわけではない。ユーザーにとって、もっとも優れた道具としてのThinkPadという方針はこれまでと変わらない」と答えた。ユーザーにアピールするポイントとしてハードウェア自身の差だけではなく、より利用形態に合わせたものにシフトするということだ。

 では具体的にどのような提案を日本IBMはThinkPadユーザーにしようとしているのか。キーワードはブロードバンドとワイヤレス、そしてセキュリティだ。

●どこでも仕事ができる環境をセキュアに、より簡単に

 堀向氏は「ブロードバンドが鍵になる」と話すその背景には、日本IBM自身が経験したブロードバンドネットワークの普及による仕事環境の変化がある。日本IBMではオフィス外でも仕事ができるように、社内のイントラネットにアクセス可能なアクセスポイント(インターネット接続サービスのIBM Global Networkをベースに、イントラネットへの接続をサポートしたサービス)にアナログモデム、ISDN、PHS、携帯電話などからアクセスできる環境を整え、必要な社員すべてが利用可能にしてきた。

 現在もこの社員向けサービスは継続されているが、加えて自宅へのブロードバンド環境の普及やワイヤレスホットスポットの増加などにより、専用の接続サービスではなく一般的なインターネット接続で仕事をする要望が出てきた。

 そこでVPN(仮想プライベートネットワーク。通信パケットをカプセル化し、特定プライベートネットワークと仮想的に接続する方法。暗号化と組み合わせることで、高いセキュリティを維持しながら社内LANなどにアクセスするための手法)とワンタイムパスワードジェネレータ(その時点でのみ有効なパスワードを生成する装置。パスワードが時間と共に自動的に変化するため、恒久的なパスワードと比較してセキュリティレベルを大幅に引き上げることができる)をキーにして暗号化を行なうシステムを導入し、どこからでも日本IBMの社内ネットワークに安全に参加できる環境を整えた。

 竹村氏は「すべての社員を1つの箱の中に入れ、同じ環境の中で仕事をさせることは、決して生産性を向上させない。各人が置かれている仕事の環境はそれぞれに異なるのだから、どこでも仕事ができる環境を作る方がいい」という。日本IBMに限らず、IBMは自身をもっとも大きなユーザーと称して、自らのために編み出してきたソリューションを提供している。インターネットを使って、オフィスにある特定の机に縛られない環境で仕事をするという提案は、自分たち自身でその効果を経験しているだけに説得力がある。

 「たとえば、出先でNotesを使って仕事をしたい時とか、出先からの帰りに立ち寄ったカフェやレストランで、ちょっと社内のメールや掲示板をチェックする。そうしたちょっとしたことだけでも、仕事のやりやすさはずいぶん違う(中林氏)」

 日本IBM社員が持っているワンタイムパスワードジェネレータは1個1万円ほどのコストがかかるそうだが、実はThinkPadの一部機種には同様の機能を実現するためのセキュリティチップが実装されているという(ThinkPad T23およびA30シリーズ)。このチップを使えば、ワンタイムパスワードジェネレータを使わなくとも、Windows上のアプリケーションとセキュリティチップの組み合わせで、同様の機能を実現させることも可能。

 このセキュリティチップは「Trusted Computing Platform Alliance(TCPA)」と呼ばれるCompaq、Hewlett-Packard、IBM、Intel、Microsoftなど145社で構成される業界団体で標準化されており、今後は順次ThinkPadシリーズに搭載されていく。

 VPNを使ってどこでも仕事ができる環境というのは、何も今突然登場したソリューションではない。個々の技術は何年も前からあるものだ。堀向氏は「ハードウェアはすでに十分に高いレベルの性能に達しているし、ソフトウェアの機能や信頼性、サービスのレベルもしかりだ。1つ1つはすでに満足できるものになってきている。必要なのは使う側の意識革命」と話す。

●ボトムアップでも仕事の環境を変えるための意識革命を起こしていきたい

 とはいえ、こうした企業システムと密接に関連したソリューションは、個人的にThinkPadを購入したからと言って利用できるものではない。自分が勤めている会社(あるいは学校、将来的には家庭内のネットワーク)のシステムも同時に変化しなければ利用できないからだ。

 中林氏は「もちろん企業向けにも積極的に提案を続けていくが、PCを使って仕事をしている社員1人1人に、そうした楽に仕事ができる環境が存在し、それが手の届くところにあるということを知ってほしい。多くのユーザーが望み、生産性改善効果が認められるならば、少しづつ仕事の環境も変化する」と話す。

 それによって、社内のITシステムを利用する社員も会社側も、有益な改善を図れるというわけだ。前出の日本IBMの例では、VPNの本格導入で社内システムにアクセスするためのコストが激減する効果もあったそうだ。日本IBMは社員がブロードバンドネットワークを導入する場合、一人あたり2,000円の補助金を出す制度があるという。「これによってPHSや携帯電話、固定電話やISDNなどで、上限無くアクセス料金がかかっていたのが抑えられるようになった(竹村氏)」という。日本IBMでVPNによって仕事をする社員の数は3,000人に上る。

 堀向氏は「セキュリティチップの内蔵やセキュリティアップ、簡単なネットワークアクセスのためのユーティリティ類など、ThinkPadは新しい仕事環境を作るための最良のソリューションを提供する。PCのコモディタイズは猛烈に進んでいるが、移動先でも利用可能なノートPCには様々な面で進化の余地が残っている。しかしそれはハードウェア単体ではなし得ない。より良いハードウェアと自らの経験を生かしたトータルのソリューションとして日本IBMは提案を行なう」と結んだ。

 これは個人的な見解だが、彼らが目指しているのは、ThinkPadを個人で購入し、会社で申請をすれば、誰もが簡単にユーティリティを使ってセキュアな仕事環境を、インターネットがある場所ならばどこでも構築できる。そんな世界だと思う。

 こうした話はなかなか個人ベースでは盛り上がらない話だが、結局そうした意識を持ち、社内の機運を高めていかなければ、なかなかクローズドな社内ネットワークの壁を突き破ることはできず、結果的に自らの仕事環境を閉塞したものに追いやってしまうと思う。

 筆者自身は自ら職場(=自宅)の環境を変え、どこでも、どのPCからでも同じように仕事ができる環境を作っている。そうすることで、利用者でもある自分の負担が少しでも減るからだ。大企業において1ユーザーの影響力は確かに小さなものかもしれないが、もし社内のシステム環境に不満があるならば、自分自身の意識や使い方を少しづつでも変えていかなければならないのかもしれない。


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(2002年2月19日)

[Text by 本田雅一]


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