●いよいよ米国の地上波TVはデジタル化
ジョン・グレン上院議員がスペースシャトルで宇宙に登った。その昔、グレン氏は、米国の宇宙飛行士として初めて地球を周回し、宇宙時代の幕開けの象徴のひとりとなった。そのグレン氏が、今度は、デジタル放送時代の幕開けの象徴となっている。それは、10月29日のシャトルの打ち上げが、米国のデジタルTVの最初の放送となったからだ。
米国では、11月から全米の10大都市圏の40以上の放送局で地上波によるデジタルTVが開始された。シャトル打ち上げは、その先行イベントとしてリアルタイム中継されたものだ。現段階では、地上波デジタルTVが行なわれているのは大都市圏だけだが、TV事業を管轄する米連邦通信委員会(FCC)の日程では、2006年にはアナログ方式のTV放送を打ち切り(時期は再度見直しあり)、一気にデジタル化を促進するTV大変革計画を打ち出している。また、ケーブルTVのデジタル化も見込まれており、今回の地上波デジタルTV開始を機に、米国のTV業界は大きくデジタルへと舵を切ることになる。
●全米でデジタルTV視聴者はたった100家庭?
だが、スペースシャトルは無事離陸したのに、それを中継したデジタルTVの方は、あまりスムーズに離陸ができなかったようだ。それどころか、米国のニュースサイトを見ていると、そもそも、ほとんどの人はデジタルTV放送が始まったことにも気がついていないと伝える記事が目立つ。「Couch Potatoes Barely Notice Digital TV」(Computer Retail Week,11/2)によると「HDTVって、ホームアンドガーデンテレビジョンのこと?」と答えたひともいたそうだ。
しかし、これも当然かもしれない。というのは、デジタルTV放送を実際に見ることができた人がほとんどいなかったからだ。上の記事によると、全米でHDTVを持っているのはたった100人程度という。ちょっと信じがたいくらいの数字だが、「The Dawnof HDTV, Ready or Not」(The New York Times,10/26、有料記事、http://www.nytimes.com/ から検索)でも、CBSの上級副社長が「私は、視聴者の数をわれわれの手と足の指で数えられると思う」と発言しているのだから、信憑性がある。それも、現時点での視聴者は、「ひとにぎりの業界エグゼクティブ、あるいはメーカーからプロトタイプを借りた人」がほとんどなのだそうだ。
●5,000ドルのTVはなかなか買えない
地上波デジタルTVの視聴者が少ないのは、その受信に必要な機材が高いからだ。HDTV対応ディスプレイとSTB(セットトップボックス)のセットで5,000ドル近辺が現在の相場となれば、よほどの金持ちでないと手が出ない。もっとも、全米随一のハイテク地帯で、テクノ成金の多いシリコンバレー周辺だけは特殊で「HDTV makes itsnational debut」(San Jose Mercury News,10/29、有料バックナンバー、 http://www.sjmercury.com/から検索)によると、Good Guys(西海岸の家電チェーン)のサンノゼ店では、けっこう引き合いが来ているという。ところが、皮肉なことに、サンフランシスコ近辺のベイエリアでは、放送塔などの用意が住民の反対などで間に合わず、まだデジタルTV放送が開始できないという。
まあ、でも放送が11月頭から開始されていたとしても事態は変わらなかっただろう。それは、デジタルTV受像セットは、高いだけでなくて、メーカーの供給も遅れていて、ほとんど入荷していない状態だからだ。Good Guysも50件のバックオーダーを抱えているという。「HDTV making low-key debut」(The Seattle Times,10/31)によると、結局、買いたい客は、ウエイティングリストに名前を載せることしかできない状態のようだ。その結果、今のところ、ほとんどの人にとってデジタルTVを観る唯一の方法は、電器店のデモを観に行くしかないらしい。なんだか、TV放送の黎明期みたいな状態になっているようだ。
そんな状態なので、TV放送局側もデジタルに力が入っていない。全米4大ネットワークのひとつABCは「101匹わんちゃん(101 Dalmatians)」の映画をデジタルTVのHDTV(高精細TV)放送で流し、CBSは今週からNFLのフットボールゲームをHDTVで流し始めた。また、NBCは人気のジェイ・レノのショウを来春からする予定だという。各局とも、勢い込んで一気にデジタルTV放送になだれ込んだという雰囲気ではなく、むしろ試験放送を始めたという状態に近いようだ。今の視聴者の数なら、それも当然だろう。 というわけで、米国の地上波デジタルTV放送は、まずは不発という状況のようだ。
●疑問符がつく2006年の完全デジタル化計画
デジタルTVが今、直面しているのは、典型的な「chicken-and-egg(タマゴが先かニワトリが先か)」問題だ。つまり、デジタルTVの受像機が増えて安くならないと、放送が本格化しない。ところが、放送が本格化して魅力が番組が増えないと、デジタルTVが普及しないというわけだ。
もっとも、この事態は最初からわかりきっていた。そもそも、FCCがこのスケジュールを決めた昨年春の段階で、このスケジュールに無理があるという記事が多数出ている。FCCは無理を承知で、ともかくスタートだけでもさせてしまおうという考えのようだ。放送局もTVメーカーも、第1段階は、とりあえずその約束を守ったという実績を作ることだけを考えたというのが本音だろう。放送局もメーカーもデジタル化はしかたがないとしても、一気に突っ走るつもりはない、と考えているようだ。
だから、FCCの2006年までにデジタルTVへの完全な移行というビジョンにも、業界はさめた見方をしている。たとえば、「HDTV preps for gradual transition」(USATODAY,10/30)では、米国の家電業界団体Consumer Electronics ManufacturersAssociation (CEMA)のプレジデントが、デジタルTV放送を受信できる環境を持つ家庭は、2006年でもたった30%だろうと予測を述べている。
●デジタルTVのビジネスモデルはまだ模索中
また、放送局側にとっては、デジタルTV放送で全体での収入が伸びなければ、メリットがない。その意味では、ただ画像が美しくなるだけのHDTVでは、収入の伸びがあまり期待できない。そのため、デジタルTVでの新しいビジネスモデルを探すのに必死だ。その解として考えられているのは、マルチチャンネル放送とデータ放送だ。マルチチャンネルは、HDTV放送もできる広い帯域で、より解像度の低いSDTV放送を複数流して、一部を有料化するなどして収入アップを目指すものだ。データ放送は、家庭のPCや進化したデジタルセットトップボックス向けに、さまざまなデータを流そうというもの。ただし、大ネットには議会からHDTVをやるようにという圧力がかかっているので、HDTVもやらざるをえない。そのため、時間帯によって、放送のスタイルを変えるというプランを計画しているといわれる。もっとも、マルチチャンネル放送もデータ放送も、今のところは、まだほとんどスタートできる段階にない。
それともうひとつ、デジタルTV放送開始で問題になっているのは、CATVでの扱いをどうするかだ。米国の場合、60%以上のTV視聴者がCATVを利用している。つまり、地上波TV放送がデジタル化しても、CATVがそのデジタルTV放送を流さないと、米国の3分の2の視聴者には、自分で受信装置を買わないかぎり届かないことになってしまう。
そこで、地上波デジタルTVをすべてそのままの解像度で放送するようにCATV局に強制する「マストキャリー(must carry)」ルールを議会に強制させようという動きもある。ただ、これに関しては「Congress Probably Won't Require Cable to CarryDigital TV Programs」(The Wall Street Journal,10/28、有料サイト、 http://www.wsj.com/ から検索)が、議会はCATV会社に対してマストキャリーの適用は見送るらしいと伝えている。
●デジタルTVの広告は盛り上がり
このように、デジタルTVに関しては、まだ霧の中の部分が多いのだが、それでもメーカーの広告合戦だけは華やからしい。「Advertising Digital-TV Ad Blitz IsDesigned To Shuffle Leadership of Makers」(The Wall Street Journal,11/3、有料サイト、 http://www.wsj.com/ から検索)によると、松下電器産業の米国法人Panasonic Consumer Electronicsは、デジタルTVで大キャンペーンに出たという。高所得者の視聴率の高い番組のCM枠にフォーカスして、広告を流すらしい。記事を読むと、「次の2年で、業界は、誰が次の10年のリーダーになるかを再定義するだろう」とPanasonicの鼻息は荒い。松下は、デジタル化を機にTVの制作や放送機器でも、これまで支配的だったソニーに挑もうとしていると言われている。となれば、鼻息が荒くなるのも当然かもしれない。
('98年11月9日)
[Reported by 後藤 弘茂]