'97年にチャンスをつかんだx86互換MPUメーカーは、'98年にコンシューマ市場でIntelを打ちのめした。そして、'99年は次世代MPUで、さらにIntelを追い込むはずだった。ところが、実際には、まったく違う展開になってしまた。それは、IntelがMPU戦略をがらっと変え、出血をいとわない猛反撃に出たからだ。
まず、Intelは'99年1月に、366MHzと400MHzのCeleronをバーゲン価格で投入した。400MHzが158ドル、366MHzが123ドルだ。Intelは、当初、この時点では366MHzを190ドル台で発売する計画でいたことを考えると、これはかなり衝撃的な価格切り下げだ。だが、それだけではない。そのあと、Intelは2月に433MHz、4月に466MHzと、2ヶ月ごとにCeleronのクロックを引き上げ、そのたびに製品価格を下へスライドさせた。そのため、ローエンドのCeleronの価格はどんどん下がり、しかもクロックはどんどん引き上げられた。450MHz以上のCeleronは、もともと第4四半期頃の出荷を予定されていた製品であり、Intelは半年も前倒ししたことになる。
Intelは、かつては「100ドル以下のMPUは売らない」とOEMメーカーや商社に伝えていた。実際、'97年までのIntelのMPUは、価格が100ドル近辺にまで下がると、製造中止になり消えていった。ところが、'99年前半にはローエンドのCeleronは60ドル台か、場合によってはそれ以下にまで下がってしまった。そのため、互換メーカーはMPUの価格をさらに引き下げなければならなくなり、MPUのASP(平均販売価格)は急降下して利幅はぐんぐん薄くなった。
また、IntelはCeleronの高クロック品の投入と同時に、Celeronのローエンド品のクロックを引き上げた。'99年頭にはCeleronのローエンドは300MHzだったのが、夏頃には366MHzから400MHzがローエンドになってしまった。これは、互換MPUメーカーにとって、これ以上のクロックの製品を投入しない限り、市場で競争力がないことを意味する。ところが、AMDのK6でも、全製品をCeleronのローエンド以上のクロックにすることはできなかった。また、Celeronの高クロック品に対抗できるクロックの製品を、AMDは潤沢に出荷することができなかった。
こうしたIntelの攻勢で、AMDは出荷量もASPも減らし、赤字に転落してしまう。しかし、AMDよりも深刻なダメージを受けたのは、AMDの下のニッチにいるその他のx86互換MPUメーカー、つまり、National Semiconductor(NS)やIDTだった。かれらは、IntelとAMDがサブ800ドルPCにまでなだれ込んできた時点で、それまで保持していた市場をなくしてしまう。
●x86互換MPUメーカーの誤算
互換MPUメーカーの誤算は、Intelがここまで本気で反撃すると予想していなかった点にある。
Intelは、高いASPで高収益を上げ、それによって多大な投資を行ない、技術や製造設備で互換MPUメーカーを引き離していた。そのため、'98年までのIntelは、高いASPにこだわりMPUの低価格化に踏み切れないでいるように見えた。実際、IntelはCeleronを発売したあとも、CeleronがPentium II市場を必要以上に浸食しないように、注意深くCeleronを抑えていた。つまり、技術的には高クロック品を出せるにもかかわらず、クロックを低く抑え(最高クロック品がPentium IIの最低クロック品と同じクロック)ていた。価格は180ドル近辺からスタートして80ドル前後で消えるという体系を保っていた。また、市場の切り分けは、Pentium II/IIIが60%でCeleronが40%にとどめ、それ以上Celeronを拡大させないという方向性でいた。
これを見た互換MPUメーカーは、Intelが高利益を守るために、Celeronで大攻勢に出てMPUの低価格化を進めることができないと踏んだ。それに対して、自分たちはIntelよりも低いASPで耐えられるため、低価格化ができる。だから、Celeronにも対抗できるし、Celeronの下に十分なニッチ市場もあると見ていた。つまり、Intelを甘く見ていたのだ。
だが、Intelが実際にしたことは、CeleronのクロックをローエンドのPentium II以上に引き上げ、従来の価格モデルを崩してバーゲン価格をつけ、Pentium II/III市場を浸食するのも構わず大量出荷したことだった。この戦略は、当然利益を減らすことになる(実際、'99年第2四半期の決算は予想を下回った)が、パラノイアであるIntelにとっては、それよりも市場を守ることの方が重要だったというわけだ。互換MPUメーカーは、Intelのこうした性質を十分に理解できていなかったようだ。また、Intel全体として見ると、サーバー向けMPUが伸びているため、Celeronで低価格攻勢をかけても、利益をそれほど落とさずに済むようになりつつあった。Intelは、PCとMPUの低価格化に合わせたビジネスモデルの転換に一応、成功したようだ。
●わずか半年でしぼんだx86互換MPUの盛り上がり
また、IntelはPentium IIIを発売することで、ASPの地滑りにもある程度歯止めをかけることができた。IntelはPentium IIIを同クロックのPentium IIとほぼ同じ価格につけることで、一気にPentium IIIへのシフトを進め、Pentium IIIの離陸も成功させる。日本では、Celeronが勢いを持ちすぎて、コンシューマ市場ではPentium IIIはいまいちだったが、米国ではPentium IIIも比較的スムーズに離陸した。
こうしたIntelの攻勢ですっかり戦略が狂ったAMDは、それでもIntelのPentium III発表に合わせてK6-IIIを投入する。K6-IIIでAMDは、価格を同クロック品のPentium IIIとピタリと同じにつけるという戦法に出た。その目的は明快で、Celeron対抗で低価格化戦争を強いられているK6-2からK6-IIIを切り離し、高く売ることでAMDのASPを引き上げることだった。しかし、この戦法も、クロックがものを言う市場では受け入れられず、また、AMDがK6-IIIを潤沢に出すことができなかったために空振りしてしまう。
そして、厳しい戦いに耐えかねた互換MPUメーカーからは、次々に脱落者が出始める。x86互換MPUは、競争が激しくても高利益を上げることができるから魅力だったのに、利幅も薄くなってしまっては、半導体メーカーにとってそこに留まる意味はない。また、これから先のクロック競争に追従するために必要な開発コストを考えると、見合わないと判断したのも当然だ。
まず、NSが5月にCyrix部門の売却計画を発表、続いてIDTも、WinChipの開発会社Centaur Technologyの売却の意向をもらし始める。そして、この両社のx86互換MPUは、VIA Technologiesのものになる。また、第5のプレーヤーであるRise Technologyも、'99年後半には、事実上舞台を降りてしまった。
こうして、'98年にあれだけ盛り上がったx86互換MPUは、Intelの本気の反撃で、たった半年でガタガタに崩れてしまう。このし烈な戦争で、いちばん得をしたのはエンドユーザーだった。高クロックMPUがどんどん値下がりしたおかげで、PCの価格が下がり、ローエンドPCの性能がぐんぐん上がった。だが、その反面、Intelと張り合う互換MPUメーカーが脱落していくことは、長い目で見た場合にエンドユーザーの得になるかどうかはわからない。
(以下後編)
(2000年1月12日)
[Reported by 後藤 弘茂]