AMDがAthlon 750MHzを発表したと思ったら、Intelが抜き打ちのPentium III 800MHz発表で巻き返す。するとAMDは、年明け早々にAthlon 800MHzで反撃する。息を呑むようなつばぜりあい。どうやら、MPU業界にミレニアムで沸くホリデーシーズンを楽しむ余裕はなかったようだ。そして、今後1年、IntelとAMDは1GHzを目指してさらにし烈なレースを繰り広げることになる。
なぜMPUは、こんな速い展開になっているのか。その背景は、戦いが始まった'97年以降のMPU戦争の流れを展望するとよくわかる。そこで、今回は、3回に分けて、過去3年のMPU戦争の流れを振り返ってみた。
まず、大きな流れをまとめると、x86互換MPUは'97年からIntelを徐々に圧迫し始め、'98年に一気にシェアを伸ばした。その結果、コンシューマ市場で互換MPUが50%以上のシェアを獲得、Intelの優位が揺らぎ始めてしまう。だが、Intelは'99年前半から一転してCeleronで猛反撃を開始する。その結果、今度は互換MPUメーカーが追いつめられ、ついには市場から脱落し始める。これでIntelが逃げ切るかと思われたが、'99年後半になるとまた状況が変わってしまう。IntelがMPUとチップセットの製品出荷でつまづき、PCメーカーの間にIntel依存への疑問が出始めるのだ。さらに、そこへAMDがAthlonを発表、再び互換MPUにチャンスが訪れる。そして、今、態勢を立て直したIntelとAMDが、決戦を始めようとしている。
●互換MPUがIntelに挑戦を始めた'97年
'97年は、この3年越しの戦争が本格化し始めた年だった。'97年までは、x86互換MPUメーカーは、Intelの主力ラインナップと直接対決できる性能のMPUをタイムリーに投入できなかった。Intelに性能で引き離され、市場シェアを大きく切り取ることはできなかった。
ところが、IntelのPentium II発表に前後して、AMDが「K6」を、Cyrixが「6x86MX」を投入したことで、状況が変わり始めた。これらのMPUは、性能ではIntelのフラッグシップであるPentium IIに迫り、価格ではPentium IIよりも1クラス以上安い。そして、その時点でIntelが低価格帯向けMPUとしていたMMX Pentiumに対しては、十分有利に戦えるMPUだった。
そして、PC市場もそうしたMPUを求め始めていた。というのは、PCの低価格化が急激に進み、従来の価格モデルやビジネスモデルが通用しなくなり始めていたからだ。
「サブ1,000ドルPCブーム」、これが互換MPUの追い風となった。'97年頭からは、Compaq Computerをはじめとする大手PCメーカーが相次いで1,000ドル以下のマシンを発売し始めていた。これだけの急激な低価格化の実現には、部品コストの削減が不可欠だ。そのため、MPUに対する低価格化の要求が強くなった。実際、Compaqの最初のサブ1,000ドルPCは、Cyrixの統合MPU「MediaGX」を採用していた。そして、'97年から'98年にかけて、サブ1,000ドルPCが発展するにつれて、互換MPUの採用はどんどん拡大していった。つまり、互換メーカーによる高性能で低価格なMPUの供給と、PCメーカー側の低価格MPUへの要求がぴったり合ったわけだ。
●製造面でのもたつきでチャンスを逃す
だが、それでも'97年中は互換MPUはIntelを本格的に脅かすことはできなかった。その最大の原因は、互換MPUの製造面の問題だ。
例えば、AMDは、期待のK6の生産でつまづいてしまった。生産個数は予定を大きく下回り、その上、高クロック化も遅れた。そのため、せっかくのチャンスを逃し、K6では大きな市場シェアと十分な利益を得ることができなかった。一方、Cyrixはファブレス(工場を持たない)メーカーでIBMなどに製造を委託していたため、思うように生産ができなかった。さらに、CyrixはNational Semiconductor(NS)に買収されたため、製造ラインをNSに移さなければならなくなった。こうした事情から、互換MPUメーカーは市場に食い込み始めていたものの、Intelを圧迫するまでには至っていなかった。
だが、互換MPUの盛り上がりの気配はどんどん濃くなっていた。それを象徴するのが、'97年10月に開催された「Microprocesor Forum 97」だ。このカンファレンスでは、AMDの「K6-2」と「K6-III」、Cyrixの「カイエン(Cayenne)」といった次世代互換MPUの技術概要が発表された。
●Intelの失敗と互換MPUの急伸
こうした互換MPUに対抗するIntelのCeleron戦略は遅れた。今、振り返ってみると、IntelはCeleron戦略をあと半年早くスタートさせ、'98年頭には2次キャッシュ統合版Celeron(Mendocino:メンドシノ)を出せるようにするべきだったろう。しかし、Intelは、'97年秋になって、ようやくCeleronプロセッサの戦略を顧客に向けて説明し始め、正式なお披露目は'98年2月の同社のカンファレンス「Intel Developer Forum(IDF)」になってしまった。しかも、最初に登場したCeleronは、2次キャッシュメモリを搭載しないバージョン(Covington:コヴィントン)で、Pentium IIと較べて性能を大きく落としていた。2次キャッシュ統合版のMendocinoは、開発スタートの時期が遅かったために、急いだにもかかわらず8月まで発表できなかった。そのため、Celeronは、最初のスタートに失敗してしまう。
Intelと互換MPUメーカーは、ここで明暗を分けた。Intelがもたついている間に、AMDは生産面のトラブルをようやく解決、さらに'98年5月にK6-2を発表してガンガン攻勢をかけ始める。AMDのシェアは'98年に入りぐんぐん伸びて、一時は1,000ドル以下のリテール市場ではIntelを上回ってしまう。また、Cyrixアーキテクチャでは、6x86系MPUの製造権利を持つIBMが大増産をかけ、ローエンド市場へ売り込みをかけた。
さらに、Intelの状況を悪くしたのは、バリューPC市場自体の拡大だ。'98年に入るとサブ1,000ドルPCはもはやキワモノではなく、米国のコンシューマPC市場の主流になり始める。そのため、Intelは急拡大する市場の中でシェアを落とすという事態に陥り、PC市場全体でのシェアをどんどん落としてしまう。もしこのまま、バリューPC市場が拡大し続けるなら、Intelのリードは完全が失われてしまう可能性も出てきた。
もっとも、この時点でも、Intelは企業向けPC市場では相変わらず安泰だった。しかし、コンシューマ市場での互換MPUの躍進が続けば、その影響は企業向けPCにも当然及んでくる。もし、企業向けPC市場にも、互換MPUが本格的に浸透し始めたら、Intelの土台は根底から揺らいでしまう。
●互換MPUの発表ラッシュとなったMicroprocessor Forum 98
こうした成功の結果、'98年後半の互換MPUメーカーは、ついにIntelを攻略する足がかりをつかんだというムードに酔っていた。これまで、互換MPUメーカーはIntelの圧倒的なシェアと市場をリードする技術に、ようやく食らいついているという構図だった。しかし、Intelと互角の地位を築くことができれば、未来はまったく違ってくる。うまくすれば、x86市場をリードする力をIntelの手から奪い、複数メーカーがそれぞれの持ち味でリードする、DRAM市場のような状況が産まれるかもしれないというわけだ。
しかし、そのためには、あと一歩詰め寄り、Intelのフラッグシップであり、Intelの高収益を産み出しているPentium IIとその後継となるPentium IIIに、正面切って挑戦することが必要だった。そして、'98年10月の「Microprocessor Forum 98」が始まった。
このカンファレンスでは、互換MPUメーカー4社が一気に次世代CPUの技術概要を発表するという、驚くべき展開となった。AMDは「Athlon」を、NSは「Jalapeno(ハラペニョ)」を、IDTは「WinChip 4」を、Rise Technologyは「mP6」をそれぞれ技術発表した。これらはいずれも'99年から2000年にかけて各社の主力製品になるMPUだ。計画通りに行けば、IntelはPentium IIIからXeon、Celeron、モバイルMPUまで、あらゆる製品で互換MPUの挑戦を受けることになる。
ここで、互換MPUメーカーにとってチャンスだったのは、IntelがIA-64プロセッサ開発にリソースを割いたために、次世代x86MPUの開発が遅れていたことだった。Intelは、Pentium Pro(P6)を'95年に発表して以来、新しいMPUコアを発表していない。次のIA-32(x86)MPU「Willamette(ウイラメット)」は、5年ブランクを開けた今年第4四半期の予定だといわれている。そのため、互換MPUメーカーがIntelを追い抜くチャンスが生まれたのだ。Intelの危機は、ここで頂点に達した。
(以下中編)
(2000年1月11日)
[Reported by 後藤 弘茂]