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今、ここにしかない本物




 ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術の時代における芸術作品」を著したのが'36年。複製技術が1900年を境に1つの水準に到達したとし、同時代の芸術に論究する有名な論文だ。

●作品のアウラ

 ベンヤミンは「複製技術の進んだ時代の中で滅びてゆくものは作品のアウラである」とし、「このプロセスこそ、まさしく現代の象徴なのだ」とする('70年高木久雄、高原宏平訳・晶文社)。ベンヤミンは、「ほんもの」という概念は「いま」「ここ」にしかないという性格によってつくられるともいっている。でも、ぼくらが日常接している現代芸術の多くは写真や映画などを含め、その多くは複製技術に基づくもので、「ほんもの」という概念がずいぶん希薄になっているように見える。

 日本ヒューレット・パッカードは、財団法人京都国際文化交流財団と提携し、芸術文化遺産のデジタルアーカイブ事業を推進している。その一環として、今回は、京都・北野天満宮の「雲龍図屏風」を複製し、同社に奉納した。

 400年以上前の桃山時代に海北友松によって描かれた代表的作例である六曲一双各縦149.4cm×横337.5cmの屏風は、まず、三菱電機株式会社の協力により最先端画像合成技術を使ってデジタル化された。

東芝ライテック「AL-FL-6」

 デジタル化にあたって使用されたのはキヤノンのデジタル一眼レフカメラEOS-1Ds。これにレンズとしてEF24-70mm F2.8L USMをつけ、1/4±1/3、F11で露光、48カットをつなぎあわせて全体をデータ化した。使われた光源は東芝ライテック製6灯蛍光灯フラッドライトAL-FL-6で、縦2灯横2灯の計4灯の前面に紫外線カットフィルターを貼り付け、さらにトレーシングペーパーにて拡散してオリジナルを照らした。色温度は4600Kだったという。

 ご存じのようにEOS-1Dsは35mmフルサイズ1,110万画素のCMOSセンサを持つカメラだ。今回は48カットをつなぎあわせ、約3億画素のデータとしてデジタル化され、カラーマッチングやカラープロファイリングを繰り返し、最終的にHP Designjet 5500ps UV プリンタで和紙に出力された。

●複製の志は今も昔も同じ

 同財団は京都デジタルアーカイブ事業を運営し、ウェブサイトでは、さまざまな所蔵先、分野のアーカイブを閲覧することができる。雲龍図屏風もすでに掲載され検索参照することができるが、それが今回のデジタル化によって生成されたデータであるかどうかは定かではない。

 奉納のイベントではオリジナルと複製を並べて見ることができた。見比べると、どうも色合いが違うように見えるのだが、これは部屋の蛍光灯が悪さをしているのだそうで、自然光ではまったく同じに見えるという。いわゆるメタメリズムによるものだ。

 デジタル化にあたって指揮をとったグラフィックデザイナーの山口晃吏氏は、コンピュータも絵筆の1つであるとし、墨を再現するのはたいへんなことだったが、今回の仕事には満足しているとしながらも、本当は、色に納得がいかない部分もあるとコメントしている。

 また、奉納を受けた北野天満宮の橘重十九宮司は、昔も今も複製を作る気持ちは同じで、そこには素晴らしいものをとにかくたくさんの人に見てもらいたいという熱意があるという。いにしえの時代には、何年もかけて人の手によって複製されていたものが、テクノロジーの進化によって、「まるで本物」のようなものが数週間でできあがるようになったのは驚くべきことだが、その背景には、「本物」は大事に保存したいが、それでは人に見てもらえないため、「まるで本物」を積極的に公開することで、「本物」に興味を持ってもらうきっかけとしたいという思惑がある。ちなみに、今回の複製に要した費用は数百万円で、人手による複製よりは圧倒的に安上がりらしい。

●新たなオリジナルの創出

 今回の複製に、ベンヤミンのいうところの「アウラ」が欠如しているのかどうかは別として、北野天満宮の橘重十九宮司のコメントはとてもドライだった。というのも、屏風は美術品に過ぎず、複製に宗教的な息吹を与え、信仰の対象としてもう1つの本物を作るといった気持ちはまるでないというのだ。また、ありのまま、そのままの道である「かんながら」をたとえにし、万物すべてのものに霊があって、どこにでも神が宿り、人は生かされているのだという説明をいただいた。そういう意味では、この複製屏風にも、きっと神が宿っているにちがいない。

 とはいえ、今回の複製は、職人によって手で漉かれた専用の和紙に出力され、やはり専門の職人によって表装されている。それはそれで新たなオリジナリティが宿っているといってもいいだろう。

 HPと財団による一連の作業のうち、南禅寺の「群虎図」を複製するプロジェクトで、HPプリンタの出力に金箔を貼り付けて作品に仕上げるプロセスを担当した箔工芸作家の裕人礫翔氏は、作者の気持ちになることが大事としながらも、作者になりきることは、自分を殺すことでもあり、それはそれでストレスがたまると白状する。出力に特製の接着剤をのせ、24金の金箔を貼り付けた上で、刷毛で余分な金を払い落としていくという作業は、地味で時間がかかる気の遠くなるものだ。

 氏の白状とは裏腹に、完璧な複製はありえない。やはり、そこにはある種のオリジナリティが宿っていると考えるべきだろう。一般に、金箔ベースの絵は、先に金箔を貼ったキャンバスに顔料の色をのせていくが、今回の複製作業はその逆だ。HPでは、接着剤そのものや墨をインクとして出力するようなことまで視野にいれて研究を進めているそうだが、インクと違って、粘りけのある接着剤や不均質な墨の安定した吐出には、まだまだ技術の進化が必要だという。

 HPは、最先端の技術だけでは、何百年も前に作られた作品を蘇らせることはできないとし、時の流れとともに劣化した芸術品の現在の姿を忠実に伝えるためには、世紀を超えて継承されてきた京都の伝統工芸を取り入れることが必要だという。この奥ゆかしさはドライな米国企業という印象を払拭する。

 今回の取材では、複製技術時代以前に生まれたオリジナルの複製は、新たなオリジナルの創出なのだという印象を強くした。もっとも複製技術時代の申し子のような写真だって同じなのだ。ネガをオリジナルとし、複製としてのプリントを作る写真では、写真家本人であっても、ビンテージプリントとモダンプリントで同じものを作ることは難しい。アナログなくしてデジタルは成立しえない。だからこそデジタルへの興味は尽きない。

□関連記事
【5月30日】日本HP、北野天満宮に重要文化財のプリンタによる複製を奉納(DC)
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/other/2006/05/30/3890.html

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(2006年6月2日)

[Reported by 山田祥平]


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