トリノオリンピックが始まる。オリンピックの公式Webサイトが最初にでき、各種の情報提供を始めたのは'96年夏のアトランタオリンピックだった。以来、インターネットは、オリンピックにとって、欠かすことのできない存在となった。 ●長野オリンピックから8年 '98年2月21日早朝、というより深夜。ぼくは、まだ暗いうちに、長野市内の部屋を出て、志賀高原に向かった。そして、クルマを麓の公共駐車場に駐め、シャトルバスに乗り換え、志賀高原の焼額山をめざした。この日は長野オリンピックの15日目。同会場では男子スラローム競技が開催されるのだ。 競技の開始は9時30分だった。斜面を歩いて登り、林立するポールを真横から眺められる位置を確保してレースの開始を待った。ミニボトルのウィスキーを、ポットで持って行ったお湯で割って飲み、体を温めた。 1回目のレースでまともな成績を得られなかった王者アルベルト・トンバはトキ(途中棄権)、応援する観衆の前で土下座のジェスチャーが印象的だった日本期待の木村公宣は13位に終わった。でも、この2人のスラロームを直近で見られたのは感動だ。手にしていたカメラごしにではなく、肉眼でしっかりと目に焼き付けた。 個人的に最初に購入したデジタル一眼レフカメラはニコンの「D1」だった。この製品の発売は'99年秋だったから、長野オリンピックには間に合わなかった。デジカメはニコンの「COOLPIX100」とか、富士フィルムの「DS-10」とか、今から考えるとオモチャのようなものしか持っていなかったから、手元にある長野オリンピックの光景は、すべてがリバーサルフィルムでしか残っていない。このオリンピック観戦は、デジカメWatchでお馴染みの西川和久氏が一緒だったのだが、彼は、発売前のデジタル一眼レフカメラ「D2000」をキヤノンから借り出していたように記憶している。ただ、今となっては記憶が怪しい。いずれにしても、デジタルカメラがこうした大イベントのレポートのために活躍するにはまだまだ非力だった時代である。 ちなみに、オリンピックの入場券には、観戦中の自分の姿が写真に撮られて、それが公開されるようなことがあっても、肖像権を主張しないことに同意する旨の文言が記載されていたはずだ。その一方で、伝える側には、オリンピック取材によって得られた写真や映像等は、オリンピックを報道するためだけに使えるという縛りもある。 ●報道を支える縁の下の力持ち 競技観戦を終えて、斜面を降りて行くと、ゴール近くの風よけのあるスペースで、震えながらパソコンを操作している男性を見かけた。使っていたのは松下の「Let'snote」で、何やら通信をしているように見えた。 麓の電話局からの距離が遠すぎて、ADSLの使用が難しい志賀高原は、今、旅館やホテルがこぞってNTTの光回線を引き込み、無料の無線LANスポットが提供され、きわめてインターネットリッチなエリアになっている。ライブカメラもあちこちに設置され、東京にいても、現在の志賀高原エリアの様子が手に取るようにわかる。朝、ドピーカンのゲレンデを確認して、新幹線に飛び乗れば、午後一番には斜面に立っていられそうな勢いだ。 長野オリンピック当時、志賀高原エリアのデータ通信インフラはPHSだった。しかも、帯域幅は32Kbpsだ。2本の回線をたばねて64Kbpsを実現する次世代のPIAFSサービス開始は、翌'99年を待たなければならなかった。 ただ、32Kbpsとはいえ、画像を送らないのであれば十分なスピードではあった。携帯電話の9.6Kbpsを考えれば夢のような広帯域だ。 スラローム会場の焼額山スキー場は、小雪混じりの曇天。たぶん気温は-10度を軽く下回っていたと思う。電源さえ確保できないそんな場所で、パソコンを取り出して使うというのは、普通の人ではないはずだ。声をかけると、新聞社の人で、競技の雑感を会社に送っているという話だった。彼が使っていたパソコンはLet'snoteだった。 普通、オリンピックのようなイベントでは、プレス登録をすれば、メディア関係者として、いろいろな優遇処置を受けることができる。屋内の暖かいスペースで原稿を書いて、不安定な無線通信に頼ることなく、固定電話で原稿を送るなり、狭帯域ながらも敷設されていたであろうEthernetを利用することだってできるはずだ。 でも、それは、選ばれた人たちだけである。相当大きなマスメディアでも、IOCから公式に発行されるプレスパスはわずかだ。だから、多くのメディアは、一般の人たちと同様の方法でチケットを入手し、それを持って入場した特派員は、特にいい席を確保できるわけでもなく、かじかんだ手をこすりながら、戦果を伝えていたはずだ。 オリンピックというと、必ず、あのときの震える手でパソコンを操作していた男性のいた光景を思い出す。インターネットはもちろん、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などの多くのメディアから、溢れるように得られる情報だが、それを支えるのは、ああいう地味な努力だ。仕事だから当たり前のことなのだが、これから始まるオリンピックでも、これらのメディアで目にするときにも、トリノで活躍する縁の下の力持ちの存在を忘れないでいようと思う。 ●北京はきっと 結局、通信と放送の融合はトリノオリンピックにも間に合わなかった。IOCとの放映権の契約には、莫大な金額が必要だが、その取材映像は、限られた地域に対して放送されるものでなければならない。この形式の契約では、地域という閉じた空間の概念が希薄なインターネットには、うまく適応することができない。本来なら、いろいろな国のメディアが取材したオリンピック映像を、インターネットを介して自在に見てみたいものだが、それはかなわないのだ。アトランタから10年も経つというのに、何も変わっていない。 トリノオリンピックもNHKのBS1が総放送予定時間300時間を予定して圧倒的な映像提供力を誇る。“がんばれニッポン”をリアルタイムで叫ぶには、時差8時間はつらいところだが、眠い目をこすりながらも、この先2週間はテレビの前で応援することにしよう。次の北京オリンピックではネット配信映像がコペルニクス的展開を果たし、もっと充実していることを祈りながら……。
□日本オリンピック委員会のホームページ
(2006年2月10日)
[Reported by 山田祥平]
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