山田祥平のRe:config.sys

システムダウンを伝える手法




 たった1行の指示記載漏れが大規模システムダウンを引き起こし、経済に大きな影響を与えてしまう。11月1日に起こった東京証券取引所の事故は、ヒトはミスをするものであり、それを前提にプロセスを考えなければならないという教訓を残した。そして、これはメディアの変貌を予感させる事件でもあった。

●ニュースの価値

 犬がヒトに噛みついてもニュースにならないが、ヒトが犬に噛みつけばニュースになる。古き時代の情報の価値観はこんなイメージだった。

 ニュースのクルーが話題の人物の自宅を訪れてコメントを求めようとドアのチャイムを鳴らす。ところが何の返事もない。当人が中にいることはわかっているのに、居留守を使われたのだ。あるいは、家人がインターフォンで拒絶の意志を伝える。こういう状況は、活字メディアではニュースになりにくいが、TVはそれをニュースにしてしまう。ワイドショーなどでよく見かける光景だ。その一部始終を映像として収録すれば、コメントが得られなくても、コメントが得られなかったという事実がニュースになってしまうのだ。

 11月1日の大規模システムダウン事故は、IT的な観点からはいろいろな分析がなされているが、ぼくがちょっと意外に感じたのは、その日の夕刊だ。

 たまたま目にしたこの日の朝日新聞夕刊では、一面に事故が大きく取り上げられ、午前中の取引が全面停止した事実が伝えられていた。ところが、株価欄のレギュラーページにはいつものように、銘柄の一覧表が掲載されていたのだ。いつもと違うのは、その株価が空欄になっているところだ。つまり、新聞は伝えるべき事実がないことを、空欄という手法で伝えたのだ。

 たぶんいろいろな事情があるのだと思う。夕刊の最終〆切ギリギリまで障害の復旧を待った結果、空欄で出さざるをえなかったのかもしれない。でも、復旧を待ちながら、この一覧表のスペースを別の記事に差し替える準備をすることもできたはずなのだ。なのにそれをしなかった。

●メディアの特性と事実の伝え方

 伝えるべき事実がないことを伝えるためには、音声を伴った映像がもっともストレートだ。ただ、何もないことを、そのまま写せばいい。

 写真のような静止画では、そこに何が写っているのかを説明しなければわからないからキャプションのような文章による補足が必要になる。百聞は一見にしかずというのは迷信だ。写真は何も語らない。写真がメディアに使われるとき、そのキャプションによって写真が語るメッセージが大きく変わることは以前この連載でも取り上げたことがある。

 名取洋之助の「写真の読み方」(岩波新書、'63年)が、同じ写真に2種類のキャプションをつけてみせ、全く違った印象を与えることを示している。

 でも、動画はちょっと違う。動画は音声がフォローするため、いわゆるキャプションが必要ないからだ。先の例では、ドアのチャイムを鳴らし、返事がないことを無音で示すことができる。写真ではそうはいかない。

 このようにメディアは、その特性に応じた事実の伝え方をしてきた。けれども、その手法が少しずつ変わってきているのだ。

 典型的なパターンは動画へのキャプション挿入だ。音声があるのだから、聞けばわかるのに、それと同じ言葉をテロップとして重ねる。語調や喜怒哀楽を文字のサイズやフォント、色で補足する。ドキュメンタリーなどで、方言がわかりにくい場合や、外国語の場合にテロップを添えるのは常套手段だが、今は、その必要がない場合も多くのシーンで音声が文字として表現される。おかげで早送りで音声なしで番組を見てもだいたいの内容は把握できてしまう。

 動画へのテロップ挿入の手法は、メディアへの接し方が時代に応じて変わってきていることに対応するものだと思う。つまり、TVの見方が変わってきているのだ。1時間の番組が1時間かけて見られるとは限らないし、画面に釘付けということが起こりにくくなっているということだ。この調子だと、今後は、番組の合間に挟まれるCFの映像表現にも影響が出てくるだろう。故意に静止画を多用するなど、早送りで見られても正確に、そして強い印象でメッセージが伝わる表現方法が考えられるようになるに違いない。

●活字メディアが変わらない理由

 活字のメディアは、もうこれ以上やることはないくらいに完成されていると思っていたが、今の時代になって、こういう紙面を見ることになって、まだまだできることがありそうだという印象を持った。

 放送は24時間、新聞は朝刊なら40ページ、夕刊なら16ページ程度という物理的なスペースの制限がある。放送はどうあがいても24時間の枠を超えることはできないし、新聞は増頁といった手段も残されてはいるが、よほどの大事件でも勃発しない限りはレギュラー頁数が守られる。このスペースに載せられないコンテンツは捨てられる運命となるし、載せるべきニュースがなくても、スペースを埋めなければ、メディアとしての体をなさない。

 TVは、カラーになったあと、音声がステレオになり、主音声、副音声で別の内容を流せるようになり、文字多重やデータ放送など、テクノロジーの進化によって、24時間という枠組みと電波の持つ帯域幅という制限の中で、いかに多くの情報を提供できるようにするかを工夫してきた。コンテンツのスペースを増やすことは、そのまま広告スペースの確保につながり、それがメディアを潤わせるからだ。

 活字メディアが増頁という手法をとりにくいのは、頁を増やすことがコストが絡んでくるからだ。コンテンツを用意するだけでなく、物理的に紙と印刷のことを考えなければならない。

●容量無限のメディアの登場

 一方、Webは事実上、容量無限のメディアを成立させてしまった。PC Watchのトップページを見ればわかるように、特にニュースがなければその日は掲載記事が少ないし、大きなイベントでもあれば大量の記事が並ぶ。埋めるべきスペースという概念が存在しないのだし、無限のスペースを埋めるわけにもいかない。だから、用意できたものだけを提示する。このことが、旧来のメディアの概念を大きく覆したことはご存じの通りだ。

 昨今では、動画配信サイトの台頭が著しいが、こちらも、放送時間や店舗スペース、在庫量といった物理的な制限にとらわれることなく、無尽蔵に映像コンテンツを用意し、オーディエンスの視聴を待てる。レンタルビデオショップとは違い、貸し出し中の札にガッカリということもない。

 もちろん、サイトがインターネットにつながる帯域幅という問題は残る。無限のコンテンツを用意しても、それをスムーズに送り出すだけの帯域が確保できなければ、オーディエンスの不満はつのるだろう。そして、帯域幅の増強にはコストがかかる。でも、それは日ごとに廉価になっていく。これは時代の追い風だ。

 ITによって、メディアは変わる。メディアからスペースという制限を取っ払ったWebは、活字メディアでもなく、映像メディアでもなく、音声メディアでもない新たなメディアを作った。そんな中で、旧来の新聞ができることは何なのか。空欄の掲載という事実によって、新聞というメディアを作る側の姿勢に、確実に変化を感じることができる。TVもうかうかしていられないのは言うまでもない。

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【11月2日】【山田】切り取られた未来をロボットは見つけられるか
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2004/0709/config008.htm

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(2005年11月18日)

[Reported by 山田祥平]


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