NECパーソナルプロダクツのPCの開発、製造拠点である米沢事業場において、「元気な米沢!」活動が行なわれている。 「元気な米沢!」活動については、以前、本コラムでも触れたことがあるが、さらに、その取り組みの詳細を知ることができた。ここで蓄積されている技術やコンセプトは、まさに、これからのNECのPCの方向性を裏付けるものだといえよう。 では、いま、米沢ではどんなことが行なわれているのか。 ●技術力を背景に道を開いた米沢事業場 その詳細に触れる前に、簡単に米沢事業場の生い立ちに触れておきたい。それを知ることが、「元気な米沢!」の源泉を知ることになるからだ。 NECパーソナルプロダクツ米沢事業場は、山形県米沢市にある。この時期になると、例年雪に覆われ、雪かきが必須の地域でもある。 1日1万台のPC生産能力を持つ同事業場では、ノートPCおよびデスクトップPCの生産が行なわれ、一部ラインを使用して、NECの直販サイトである「NECダイレクト」のBTO対応も行なわれている。 米沢事業場の創業は'44年。当時は東北金属工業(トーキン)の疎開製造工場として創業。部品生産を行なっていたこの工場を母体に、'51年には米沢製作所として設立。その後、NECの約30%の出資を経て、82年にはNECの100%出資子会社となり、米沢日本電気(NEC米沢)に社名を変更。NECブランドのノートPCの開発、生産に取り組んできた。2001年には、NECのPC事業の分社化により、NECカスタムテクニカ米沢事業場に、そして、2003年にはNECパーソナルプロダクツ米沢事業場に名称を変更し、現在に至っている。 だが、その道のりは決して平坦ではなかった。もともと下請け工場としてスタートした拠点だけに、景気の影響や、親会社の業績の影響を受けやすい体質にあったからだ。 なかでも、大きな影響を受けたのが第2次オイルショックだった。業績悪化を背景に、米沢製作所は一時、閉鎖の危機にすら陥ったのだ。 その際、救いの手を差し伸べたのがNECだった。NECは、米沢製作所を100%子会社化するとともに、'82年に水戸部知巳氏を本社から社長として送り込み、米沢日本電気としての再建に乗り出した。 NECではちょうどPC-9800シリーズの事業がスタートした時期。同時に、米沢製作所の主要な技術者たちが、大型コンピュータの開発や、デジタル交換機の開発のためにNECに出向し、自らの技術力に磨きをかけていた時期でもあった。 「下請けのままでなく、本当に必要とされる会社でなくてはならない。もし、自分たちに開発力があるならば、開発をしてみたらどうだ」 水戸部氏の号令に、米沢日本電気の技術者たちは、下請け構造からの脱却を目指して、自主開発に挑戦していった。 社内では「プロジェクトY」と呼ばれた自主開発への挑戦は、松ヶ岬工場と呼ばれる米沢市内のガレージハウスともいえる場所でスタートした。同時に技術者不足対策として、「米沢中の変わり者を集めよ!」との指示のもと、米沢市内、山形県内から技術者の獲得に乗り出し、自主開発体制を整えた。 さらに、開発用の機材も積極的に導入した。もちろん、直前まで閉鎖を迫られていた会社に、設備投資をする余裕があるはずもない。NECの支援を得ながら、設備投資を進めていったのだ。
現在、NECパーソナルプロダクツのエグゼクティブアドバイザーを務める柴田孝氏は、当時を振り返り、次のように語る。 「NECから来て間もない水戸部社長が私たちに言ったのは、とにかく欲しいものがあればドンドン言ってくれ、ということだった。半信半疑ながら、欲しいものを提出したところ、この予算獲得をNEC本社に掛け合ってくれた。それは大変な苦労だっただろう。もし、水戸部氏がいなかったら、いまの米沢事業場はなかったはず」 実際、米沢日本電気には驚くような設備が導入された。 プリント基板にLSIなどを実装するSMT設備をNECグループのなかで最初に導入。これはSMT装置メーカーから見ても、5号機という早さだった。さらに、2次元CADシステムの導入や、電波測定サイトの設置、ミニコンピュータ「MicroVAX II」および「VAX8250」の導入といった大型投資を行ない、ゲートアレイの開発から装置開発までが可能な体制が整った。 その米沢日本電気が最初に開発したのが、「PC-8826」と呼ばれるプリンタであった。4色のボールペンが左右に動き、紙を上下に動かすことで文字や絵を印字する仕組みを採用したもので、当時の価格は148,000円。米沢発として、NECブランドで発売された最初の製品であった。今でもプリンタの製造工程が米沢事業場に残っているのは、この時からの流れだといっていい。 その後、'84年にはイメージスキャナーの「PC-IN501」、カラープリンタの「PC-X」を開発。同年8月には、その後の98NOTEの原型となる海外向けの「PC-8401A」を開発することに成功した。 「PC-8401Aは、世界初のA4サイズノートPCといえるもの。これを完成させたことで、NECのPC-98部隊に、自分たちの技術を売り込める自信がついた」(柴田エグゼクティブアドバイザー)。 それまでの開発の対象は、NECホームエレクトロニクスが担当していた「PC-8800」シリーズや、海外を担当するPC事業部門。急激に事業を拡大し、勢いに乗る「PC-9800」シリーズのPC事業に参画することが、当時の米沢日本電気の大きな目標となっていた。だが、府中事業場の開発部門に技術を売り込んでも、当時は相手にはしてもらえなかったのが実態だった。 ところが、ある日、米沢日本電気に、1つの転機が訪れることになる。 それは、ラップトップPCの開発だった。 NEC本体からの指示は、半年間という短期間に、「PC-98LT」と呼ばれるラップトップPCを開発することだった。海外向けのPC-8401Aを開発したノウハウなどを活かし、小型化、省電力化、さらにはヒンジ構造の設計見直しなどを行なったのに加え、「V50」というPC-98LTに搭載したCPUの開発にまで着手した。この結果、PC-9800シリーズ初のラップトップPCが世の中に送り出されたのだ。 この製品から米沢日本電気と、98部隊とのつながりがはじまる。
米沢日本電気の技術力を決定的なものにしたのが、'89年に発売した「PC-9801N」(通称98NOTE)であった。 東芝が世界初のノートPCとなる「Dynabook(J-3100 SS)」を市場に投入。わずか3カ月で98NOTEを開発せよ、との号令が米沢日本電気に下った。 出荷開始は、年末商戦突入直前の11月24日に決められた。米沢日本電気では、この時、初めて「逆線表」という手法を採用した。11月24日という出荷予定日を線表に書き込み、そこから遡って、作業日程を決めるというものだ。本来は、仕様検討や回路設計、検証、部品調達、生産、出荷と順を追って、線表が引かれる。しかし、逆線表では出荷日が最優先され、それにあわせて、すべての作業が決定するというものだ。そして、それがわずか約3カ月間に凝縮されている。
「当時は、なりふり構わず開発に取り組んだ。毎日のように、決定の遅れや指示の遅れを指摘し、問題解決を迅速に図っていった。過去に経験したことがない緊張感と危機感を持って臨んだプロジェクトだった」と柴田エグデグティブアドバイザーは振り返る。 最初の作業となる仕様検討、回路設計は8月17日から開始され、米沢日本電気は、見事予定通りのスケジュールで、11月24日に98NOTEを出荷。短期間での製品化が、Dynabookの独走に歯止めをかけ、年度末までの約5カ月間で5万台の出荷を予定していたものが、結果としては10万台を出荷する大ヒット製品となった。 それ以来、ノートPCの開発、生産は米沢事業場で行なわれている。また、デスクトップPCを生産していた群馬事業場が、サポート拠点へと転換したのに伴い、その役割も米沢事業場へと移管された。 一時は閉鎖まで追い込まれた会社が、いまやNECのPC生産および開発を担う基幹拠点となっているのだ。 ●技術者の自由な発想を具現化する こうした歴史からも明らかなように、米沢事業場には、自らの意志で復活を果たした経験と、自らの技術力でPC-9800シリーズのノートPC開発の勝ち取った実績、そして、その後のNECのPC事業の基幹拠点へと成長した底力がある。それこそが米沢事業場のDNAだといえる。 そのDNAを、今の時代につなげたものが、「元気な米沢!」活動ということになるのだ。 この活動で目指しているのは、技術者が自らの担当領域において、付加価値の投入を行ない、NEC PCそのものの商品力向上を図るということだ。 「技術者の自由な発想とこだわり、思い入れを尊重し、それをもとに商品化を目指す。上司からのトップダウンではなく、技術者自らのフリーエントリー制とするボトムアップ型のスタイルを採用した。そして、エントリーされた技術に対しては、全面的に支援する体制を整えた」と、この活動の仕掛け人でもあるNECパーソナルプロダクツPC事業本部開発生産事業部 小野寺忠司事業部長代理は語る。 活動は、「環境貢献」、「極上の質」、「楽しさ創出」という3つの柱と、それを「環境」、「静音」、「安全性/信頼性」、「デザイン」、「コンセプト技術」、「ユーザビリティ」という6つのカテゴリに分類している。 現在、65人の社員から43のテーマがエントリーされており、ハードウェア開発、ソフトウェア開発の技術者以外にも、生産プロセス、資材部門などの社員がエントリーしている。 「これらの多くの成果は、2008年から2009年にかけて、商品に採用されることになる。また、一部ではすでに商品化につながっているものもある」(小野寺事業部長代理)という。 すでに実現している活動成果としては、ノートPCの天板に傷がついても自己修復するスクラッチリペアや、オリジナル性のある天板デザインを可能とするレーザーマーキングおよびインクジェット塗装、CPUやHDDの水冷システム、製造ラインにおける品質を検査するための異音検査システムなどがある。 また、2007年9月に「LaVie C」に採用したNiHNバッテリ寿命監視システムでは、従来のバッテリに比べて約2.5倍の長寿命化を実現。同時にバッテリの安全性改善も達成したという。これは、バッテリセル、ハードウェアおよびファームウェアの改善、監視ソフトの開発により実現したものだ。 そして、2008年の早い段階では、新たなデザイン技術として、インモールド成形による天板デザインや、真空熱転写加工による木目やレザーのような感触を実現したものが登場することになりそうだ。 「ノートPCの天板デザインは、カラーバリエーションによる色の選択、ガラ(柄)バリエーションと呼ぶ柄の選択に続き、今後は、触って楽しむ手触り、質感などの『触れるバリエーション』へと変化してくるものと予測している。触れても楽しいPCの創出にいち早く乗り出す」(NECパーソナルプロダクツ PC事業本部 開発生産事業部 モバイル商品開発部 神尾俊聡氏)。
●新たなPCの創出にも挑む そして、「元気な米沢!」活動では、これまでのPCの考え方では捉えきれないような、新たなPCの開発にも挑むことになる。 小型軽量化したモバイルPCの開発のほか、「スーパーエコPC」と呼ばれる低消費電力型、環境配慮型のPCも検討に挙がっているという。 スーパーエコPCは、NECナノエレクトロニクス研究所と共同開発している難燃バイオプラスチック材料を採用し、製造から廃棄までのCO2排出量を大幅に削減。また、独自の省電力機能を搭載する予定だという。 「元気な米沢!」活動は、米沢製作所以来、米沢事業場が培ってきたDNAを具現化するものといえる。 2008年には、どんな活動成果を、目の前に見せてくれるかが楽しみだ。
□NECのホームページ (2008年1月16日) [Text by 大河原克行]
【PC Watchホームページ】
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