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読む映画、読むTV



 デジタルデータには表面的には見えない情報を豊富に含ませることができる。いわゆるメタデータは、ファイルのプロパティ、サイドカーファイル、デジカメ写真に埋め込まれたEXIF情報などバリエーションは多岐にわたる。コンテンツのデジタル化は、その見方、見られ方に少しずつ影響を与え始めている。けれども、それは、テクノロジーの進化のみによるものではなさそうだ。

●違和感のある吹き替え

 CeBITでドイツに向かう機中、隣り合った男性と映画の話になった。この男性は日本人ではあるが、すでにドイツに7年住んでいるとのことで、ドイツ人男性の客室乗務員にも、流ちょうなドイツ語でビールの銘柄を指定していた。

 彼は、ドイツで映画を見るのはつまらないという。その理由を聞くと、ドイツにとっての洋画、すなわち、アメリカ映画やフランス映画などのほとんどが吹き替え版で公開されるからなのだという。なぜなら、ドイツ語は単語が長く、もし、字幕で処理しようとすると、画面が文字でいっぱいになってしまうかららしい。

 洋画を見ようという場合、字幕版と吹き替え版があるのなら、迷うことなく字幕版を見る。最近おもしろかった映画に「ナショナルトレジャー」があるが、これにも字幕版と吹き替え版があり、字幕版を見た。オリジナル音声が存在しないアニメなら仕方がないが、一所懸命の声優さんには申し訳ないが、実写映像の吹き替えは、どうしても違和感がつきまとう。だから、あの「冬のソナタ」だって、20話全部を字幕版で見た。

 こうして、当たり前のように字幕版の洋画を見ていると、映画を見ているはずの時間の1/3くらいは字幕を読んでいることに気がつく。つまり、映画を見ながら映画を読んでいるのだ。冒頭のドイツでの洋画事情の話ではないが、長い字幕のシーンでは、映像への集中がおろそかになってしまうことだってある。

 そういえば、昔の映画では、字幕が画面の右側に縦書きで配されることが多かったと記憶しているが、最近は画面下部に横書きされることが多いように思う。だから、右側縦書き時代には映画館で席を確保するときにも、劇場の左側に座るのがよいとされていた。なぜなら、字幕を読みながらも、視界に少しでもたくさんの映像を入れ込むことができるからだ。けれども今は、迷わず、スクリーン正面中央を選ぶのがいい。

 今年は、ちょっと集中して映画やTVのコンテンツを見ようと自分で決めたので、海外出張先での時間の合間にも映画館にでかけて映画を見たりしている。たとえばアメリカで見るアメリカ映画には字幕なんてない。日本で見る邦画のように映像と音声だけに集中できるので、これはこれで意外と新鮮だ。DVDで映画コンテンツを繰り返し楽しむ場合は、字幕を出さないという方も多いんじゃないだろうか。

●文学としての映像

 森田芳光監督の映画「(ハル)」(1996東宝配給)は、パソコン通信を通じて知り合った男女がメールのやりとりの中で育む純愛ストーリーだが、同監督が、字幕つきの洋画のように「読む映画」を作ってみたかったと答えているインタビューを読んだことがある。つまり、文学としての映画だ。この映画はぼくも見たが、画面には本当にたくさんの文字情報が出てくる。しかも、台詞をなぞる字幕ではなく、メインの情報として文字としてのメールメッセージ本文が多用されていたのだ。当時のパソコン通信は、文字だけで行われるコミュニケーションだったのだから、そうなるのは当然だが、この映画の手法もまた新鮮に感じた。この夏には、あの「電車男」が映画になるそうだが、どんな展開になるのか、ちょっと楽しみだ。

 映像コンテンツが文字に強く依存する傾向は、最近の(といっても、かなり以前からの)TVもそうだ。バラエティ番組やニュースなどは、いたるところにテロップが入り、たとえ、音声がなかったとしても、その内容を把握することができる。知り合いのTV編集マンは、早送りで見たってほとんど内容はわかると豪語する。タレントやアナウンサーが話しているのはまさに日本語だ。だが、それをあえてテロップにする演出。TVもまた、「読むTV」になってしまっている。そのおかげで、音声がよく聞き取れないほどうるさい居酒屋でも、カウンターの脇に置かれたTVを距離をおいて眺めながら一杯やれるわけだ。

●崩れるシナジー

 「百聞は一見にしかず」という言葉があるが、どうやらその原則が揺らぎつつあるようだ。一見すればわかるはずのものを、文字で補足しようとする。以前、名取洋之助の著作を例に言及したように、真を写すはずの写真ですら、そのキャプションによって意味が変わる。それが大衆化ということなのだろうか。

 洋画の日本語字幕は、あくまでも黒子なので、ほとんどの場合、一定の書式で淡々と役者の台詞を日本語で表示する。ベッドの上での愛のつぶやきも、乱闘シーンにおける罵声も同じ書体、同じサイズで表示される。この点は、タレントの雄叫びが、グリグリ回るピンクの飾り文字でテロップになるTVとは大きく異なる。でも、デジタルデータに埋め込まれたメタデータなら、そのどちらにも対応できそうだ。

 ここのところのライブドア、ニッポン放送、フジテレビの騒ぎはドラマや映画よりずっと過激だ。まるで企業買収手法の見本市のような状況がずっと続いている。さらには、そこにソフトバンクが絡むというニュースまで伝わってきた。

 メディアは、時代ごとに、新たな種類の情報を取り込み、現在に至っている。大衆が接するメディアは、新聞からラジオ、ラジオはTVと変遷してきた。かといって、過去のメディアが廃ってしまうのではなく、シナジーの原則の中で共存している。

 ラジオでは文字を表現しにくいし、TVは映像が主役であるだけに、音声情報だけに制限されることによってかえって刺激される想像力を与えない。音楽だって、映像を含むDVDと、音楽だけのCDが共存している。

 けれども、インターネットは、これらの異種情報すべてを飲み込む新しいメディアだ。だからこそシナジーにはなりにくい。旧来のメディアが、利用こそすれ、その台頭を頑なに拒もうという気持ちもわかる。だが、メディアの違いがコンテンツに必ず変化を与える以上、その試練を避けては通れない。今度こそ、メディアの置き換えが起こらないとは限らないからだ。

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【2004年7月9日】【山田】切り取られた未来をロボットは見つけられるか
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2004/0709/config008.htm

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(2005年3月25日)

[Reported by 山田祥平]

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