■山田祥平のRe:config.sys■今、問われるパソコンの付加価値 |
IBMがパソコン事業の売却を発表した。IBM PCの発売が1981年8月なので、今年は23周年。四半世紀を待たずしてこういう結末を迎えることになった。ちなみに、ThinkPadは1992年10月の発売なので14周年だ。まあ、アメリカの巨大企業のこうした例は、'80年代のGEがテレビ市場から撤退したことをひくまでもなく、天地がひっくりかえるような大騒ぎになるようなことにもならず、各界から冷静に受け止められているようだ。
●やれることは、まだたくさんある
IBMのパソコン事業売却発表前日、ジャストシステムが『一太郎2005』を発表した。同社は、現行バージョンの『一太郎2004』以降、バージョン番号に年号を使うようになり、毎年、新しい製品を発表すると表明していたが、その約束通り、今回のバージョンアップが行なわれた。
同時に発表された日本語IME『ATOK』は、『ATOK2005』と称される。実は、昨年時点では、ATOKに関してはPC以外に携帯電話やカーナビに搭載されることも多く、テクノロジーのバージョンを数字で表す必要があるとして、今回は『ATOK18』になるはずだったのだが、その話はどこかに葬り去られてしまったようだ。
一太郎は、実は、今回で20作目、20周年を迎える。ちょっと計算が合わないように見えるが、その前身であるJS-WORDやKTISを勘定に入れるとつじつまがあう。JS-WORDは、1983年に、NECのパソコンPC-100用に開発されたワープロソフトで、マウスを使ったユーザーインターフェースを、文書作成という場面で、どのように生かすかを模索して作られた記念すべきソフトウェアだった。そして、その日本語入力機能がKTISだった。今回の一太郎は、ここから数えて20作目、20周年を迎えるというわけだ。JS-WORDからの愛用者としても感無量だ。
浮川和宣社長は発表会場で挨拶にたち、IT分野はドッグイヤーで進化が激しく、そのための毎年バージョンアップだとし、一太郎を人間にたとえれば、これで成人だが、まだまだやっていきたいこと、できることはたくさんあると語った。
ちなみに、同社では、一太郎を『考えるための道具』として位置づけたいようで、ワードプロセッサとは呼んでほしくはなさそうだ。同日発表されたプレスリリースにもワードプロセッサという言葉はいっさい出てこない。
発表会の後、浮川和宣社長と少し話ができた。『考えるための道具』として熟成させるには、1年はちょっと短すぎたんじゃないですかと聞くと、間に合わなかったことを認めた上で、それでも、こうして着実にカタチにしていくことが重要なのだと話してくれた。
確かに考えるための道具としての一太郎2005は、その進化に物足りない点があるのだが、ATOKは地味ながらすごい進化を果たしている。
1997年に発表されたATOK11では、助詞の方向性を正確に判断する共起処理機能が搭載され「彼女は大根に似ている」と「彼女は大根を煮ている」を正確に変換できるようになり、1998年のATOK12では、変換済みの文字列を指す指示代名詞を認識し、的確な変換をするようになった。
以降、変換の正確さの追求は、ちょっと小康状態が続いていたのだが、今回は、「高価な置物」、「硬貨の投入」、「校歌の斉唱」といった共起用例が充実した上、「着物を着た。きれいに着るのは難しい」「包丁を使った。きれいに切るのは難しい」を、文脈の流れに沿って正確に変換するという。
配布されたベータ版ではこの部分がまだうまく動いていないのだが、製品版が楽しみだ。まさに、二文節最長一致法の時代から考えれば夢のような話だ。なお、ジャストシステムの日本語テクノロジーの歴史に関しては、同社の小林龍生氏が情報処理学会誌のためにまとめたものが同社のウェブサイトにある。
●標準化されたハードウェアと、その付加価値
一太郎はパソコンを考える道具にするためのアプローチを試みる。ATOKの進化は、考える道具にする以前のテーマとして、考える邪魔をしないために正確な日本語入力を強力にサポートしようとしている。そして、それは、標準化されたパソコンというハードウェアへの付加価値でもある。
ところが、メーカー製のパソコンが、プリインストールソフト満載状態で出荷されるようになって久しい。一般的なユーザーは、ソフトウェアに新たな投資をせず、as isで、購入機のライフサイクルを終えさせることが少なくないと聞く。
最初から入っているOSを使い、OS標準のIMEと、最初から入っているワープロソフトを、何の疑問も持たずに使い続けるし、それでさして不便は感じることもないわけだ。ブラウザもIEなら、メールソフトもOutlook Expressである。
けれども、多少の投資さえすれば、今までとは大きく異なる世界を体験できる。目の前にある同じ機械が、さっきまでの機械とは別のマシンのように生まれ変わるのだ。それがパソコンの醍醐味であったはずだが、今は、それが希薄になりつつある。
量販店にでかける。NEC、富士通、ソニーのパソコンが、ズラリと並んでいるとしよう。その中から、1つの製品を選ぶ理由は何か。ほぼ似通った価格の製品を比較したときに、スペックが違い、デザインが違い、付属ソフトや機能が違う。また、受けられるサービスも異なる。この時点で、すでに、パソコンは進化する機械であるということは頭の中にない。as is でできることだけが、比較検討の対象になっているのだ。そして、それがパソコンの付加価値であり、メーカーは、それで他社との差別化を図るしかない。付加価値は、最初からついているものであって、あとから付加するものではないのだ。
●付加価値はビジネスにならないのか
2005年の2月になって、『一太郎2005』が発売されたら、パッケージを買ってきてインストールするだけで、パソコンはジャストシステムがいうところの『考えるための道具』となる。それは、LaVieだろうが、BIBLOだろうが、VAIOだろうが同じである。ところが、それを声高にアピールしようとしたとたん、メーカー各社の独自性は脆くも崩れ去る。だから言わない。それが、今のパソコンシーンのジレンマだ。
汎用機としてのパソコンシステムは、一眼レフカメラシステムのような製品とは性格が大きく異なる。標準化されたフィルム、もとい、メモリカードに画像を記録することができるのがカメラだが、最初にニコンを選ぶか、キヤノンを選ぶかで、その後のカメラライフは大きく変わる。レンズを揃えた結果、カメラを代替えするときにも、同じメーカーを選ぶだろうし、純正オプションが好まれる傾向もある。
でも、パソコンはそうはなれない。汎用性という呪縛が未来永劫つきまとうからだ。その汎用性への付加価値。誰が何をパソコンに求めているのかをカタチにすること。IBMはそれを捨てた。デルやゲートウェイのようなビジネスモデルだけが勝ち残るのか。日本のパソコンメーカーは、まだそれを決めかねている。
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【12月7日】ジャストシステム、一太郎/花子/ATOKの2005年版を発表
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2004/1207/just.htm
(2004年12月10日)
[Reported by 山田祥平]