山田祥平のRe:config.sys

見えるディスク



 かつてのパソコンは清書のための道具として使われる場面がかなり多かった。紙をデバイスと呼んでいいものかどうか、よくわからないが、最終的に紙に美しく出力するために、多くの努力が費やされてきたわけだ。

 ブラザー工業は、1984年に、A4サイズの日本語ワープロ『ピコワードNP-100』を発売している。その後、日本で、ひとつの時代を築くことになるパーソナルワープロとして、世界初の製品だ。単漢字変換で1行をモノクロ液晶で表示するものだった。

 記憶は曖昧なのだが、確かそのときの広告コピーには『日本人タイプライター』というのが使われていたと思う。文字通り、この機械は、まさにタイプライターだった。というのも、ストレージを持たず、入力するごとに、内蔵プリンタが入力済みの行を印刷する機構だったからだ。編集も1行単位でしかできず、印刷してしまった行は、二度とディスプレイ上には戻らなかった。それでも、熱転写プリンタが出力する几帳面な文字には、感動を覚えたものだ。

 ぼくは、その当時、電子機器のマニュアルを書く仕事を引き受けていた。NP-100そのものだったか、その後継機だったのか記憶は定かではないのだが、その取扱説明書、いわゆるマニュアルを原稿用紙に手書きして作ったことを覚えている。なにしろ、今から20年近く前の話だし、残念ながら、ブラザー工業のサイトにもわずかな情報しか記載されていないので、曖昧な記述にはご容赦願いたい。

●人間にはデジタルデータが見えない

 「ちょっと、きみ、この文書をワープロで打っておいてくれたまえ」

 '80年代のオフィスでは、上司から部下に対して、そんな指示が頻繁にくだされていたと思う。今だって、印刷させたメールに目を通して、返事を手書きし、それを秘書に代理返信させているようなエグゼクティブもいるかもしれない。

 結局のところ、ぼくら人間は、アナログなものしか感知することができない。文書や画像をプリントすれば、それは紙の上のインクのシミだし、ディスプレイへの表示も光の明暗という実にアナログな現象として目に届く(DVI対応液晶モニタは微妙だが……)。また、デジタルサウンドはアナログアンプを介してスピーカーのコーン紙をふるわせ、それが空気を伝わって耳に届く。

 つまり、どんなにデジタルなデータであっても、それが人間に認識されるときには、必ずアナログなのだ。そしてその見かけは、デバイスによっても、環境によっても異なる。まぶしい戸外で見るディスプレイと、薄暗い部屋でのぞき込むディスプレイでは、たとえ同じものが表示されていたとしても印象は異なるだろうし、プリンタに複数枚を出力した場合などでも、寸分違わないものが出てくる保証はない。

 データがコンピュータの内部にあるうちは、膨大な回数のコピーが繰り返されようとも、その内容が劣化したり、誤りが発生することはないが、コンピュータの外に出たとたん、それは、アナログデータというきわめて曖昧なものになる。そういう意味では、ぼくらは、コンピュータが扱っているデータそのものを見ることができないということでもある。

 まだ、記録用のメディアとしてフロッピーディスクがよく使われていたころに、教壇に立って学生相手に、その仕組みを説明するために、3.5インチのフロッピーディスクを手に取り、シャッターを開き、その中に磁性体を塗布した円盤状のディスクが入っていることや、ディスクドライブのヘッドは、磁気を利用してデータを読み書きすることを教えたあと、冗談のつもりで、「エキスパートは、ディスクの表面を見るだけで中身がわかる」といったら、本当に、信じられ、尊敬のまなざしで見られて困ったことがある。

 音楽コンテンツの入ったコンパクトディスクなら、記録済み部分を判別できるので、このCDは録音時間が長いとか短いとかがわかるのだが、さすがに、フロッピーディスクではそうはいかない。

●デバイス依存のデジタルデータ

 目に見えているものはアナログで、そのアナログデータを操作してデジタルデータを加工するもどかしさは、ちょっと前に「サランラップごしのコピー」で言及した内容に通じるものがある。

 こうしたことを考えると、前回、パソコン通信サービスのBBSに書き込まれるメッセージが、自分だけの掌握下にあると書いたが、実際にはそうではないことに気がつく。最終的にメッセージが第三者の目にふれる段階でのデバイスを、書き手が掌握することができないからだ。

 当時はPC-9800シリーズが全盛だったといっても、1987年以降はセイコーエプソンの98互換機も人気だったわけで、当然、似て非なるフォントで日本語を表示していた。CRTディスプレイのサイズも違えば、表面をノングレア処理したもの、していないものといった違いもある。

 ドットインパクト方式の日本語プリンタも、プリンタ側にフォントが内蔵されていたために、同じNECの製品でも、異なる事業部から発売されていたPC-PRシリーズとNMシリーズでは出力結果は異なったし、まして、セイコーエプソンのプリンタで出力した場合は、文書そのものから受ける印象まで違っていたように思う。もちろん、印刷に使う用紙もまちまちだ。

 今ならさしずめ、PCとMacの違いといえばわかりやすいだろうか。たとえば、同じものであるはずのメールメッセージが、PCのOutlook Expressで読んだとき、MacのEudoraやEntourageで読んだとき、さらには、携帯電話に転送して読んだときでは、印象が大きく異なることは想像に難くない。

 通信機能を持ち、ネットワークにつながったことで、確かにパソコンはメディアになった。けれども、その代償として、最終的に読み手の目に触れるデバイスを掌握することができなくなってしまった。果たしてそれを、本当にメディアといってしまってもいいのだろうか。コピーが繰り返された結果、ぼくらが入手できるのは、同じものとしての複製ではなく、似ているものにすぎないのにだ。

●紙の白が見かけを決める

 これまた昔話で恐縮だが、セイコーエプソンのプリンタ開発者との雑談の中で、“n”色目のインクとして、白を採用するというのはどうかという話をしたことがある。その場では笑って却下されてしまったが、これは、今でもアリではないかと思うのだ。

 今、エプソンのプリンタは、グロスオプティマイザと呼ばれる白ならぬ透明のインクを採用するようになり、印刷結果表面の光沢感をコントロールしている。

 写真の場合もそうだが、画像において、白い部分は、その印象に大きな影響を与える。にもかかわらず、その白は、紙の白色に依存する。つまり、ディティールの含まれない白く飛んだ部分は、紙の白で表現される。だからこそ、写真家は、ネガからの焼き付け作業に際して丹念に印画紙を選び、最終的な仕上がりをコントロールする。

 写真集は、写真を楽しむための気軽で便利なメディアだが、ここでも紙の色は重要な問題で、印画紙のオリジナルプリントと、特定の用紙にオフセット印刷されたものでは、やはり印象は異なる。写真集で見て気に入っていた作品のオリジナルプリントに美術館やギャラリーで対面したときに感じる新しい発見は、その差異によるものかもしれない。

 紙は、想像以上に重要な役割を果たしてきた。だが、パソコンは、その領域に踏み込んでいけるのだろうか。

 この原稿を書き上げた直後に、7月9日掲載の第8回「切り取られた未来をロボットは見つけられるか」で話題に取り上げた写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)の訃報が入った。謹んでご冥福をお祈りしたい。


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(2004年8月6日)

[Reported by 山田祥平]

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