山田祥平のRe:config.sys

小倉優子の謎



 PDFは、それを作る側から見ると、仮想的なプリンタの出力結果だ。Adobe Acrobatをインストールしたパソコンには、Adobe PDFという名前のプリンタが登録され、それに対して印刷出力すると、PDFが生成され、電子の紙としてのファイルが出力される。

 このユーザーインターフェースには、Microsoftも興味を持っているようだ。たとえば、Office 2003 Editionsをインストールすると、Microsoft Office Document Image Writerという名前のプリンタが登録される。このプリンタに対して出力すると、mdiという拡張子のついたファイルができる。このファイルは、Officeに含まれるMicrosoft Office Document Imaging(MDI)というアプリケーションを使って表示することができる。

 まあ、いってみれば、Microsoft仕様のPDFだが、目指すところはアドビのPDFとは本質的に異なるので、ここでは、あまり深追いはしない。

 PDFにしても、MDIにしても、電子の紙上に印刷されたデジタルインクのシミには、それを生成するために使われた文字データが含まれている。だから、紙の上に、ペンや蛍光ペンなどで電子的な書き込みができる「紙」の機能に加えて、シミの中から特定の文字列を検索するという「紙」以上の便宜性が提供される。このあたりが、デジタルペーパーのデジタルたる付加価値だ。

●同じように見えても何かが違う

 さて、こうしてできあがった電子の紙をディスプレイに表示する。ぼくが今、この原稿を書くために使っているパソコンには、21.3型の液晶ディスプレイが接続されている。解像度はUXGA(1,600×1,200ドット)で、Adobe ReaderでA4サイズのPDFを見開きで表示させたとき、ほんの少し小さいものの、ほぼ原寸で閲覧することができる。

 可視域は横17インチ(約43cm)あり、そこに1,600個のドットを並べると、1インチあたり94個となる。これに対して、標準設定で使っているWindowsデスクトップは、96dpiなので、マッチングはそれなりだと思う。そんなわけで、今、使っているディスプレイには、画面を縦位置にするピボット機能も搭載されているのだが、その機能は使っていない。

 そして、ぼくは、このディスプレイに向かって作業をするとき、測ってみると、ほぼ60cmの距離で画面を見ている。

 それに対して、本物のA4用紙に10.5ポイントの文字をプリントしたものを見るときはどうだろう。机の上にこの紙を置き、上から見下ろすような感じで見ることになるが、そのときの距離は約40cmだった。ディスプレイまでの距離の方が、若干遠いことがわかる。かといって、ディスプレイを見る距離を40cmまで近くしてしまうと、どうにも、見づらい。ほぼ同じ大きさで表示されているにもかかわらず、紙とディスプレイでは、見やすい距離が異なるようなのだ。

 この違いは、やはり、デバイスとしての違いによるものなのだろう。ディスプレイの94dpiに対して、昨今のインクジェットプリンタの出力は数百dpiを軽く超えている。また、ディスプレイが自ら発光しているのに対して、紙は、光の反射によって見ることになる。

 紙を至近距離で見ても違和感がないのは、このあたりに原因がありそうだ。ほぼ同じ大きさ、そして、ほぼ同じ色で表示されているにもかかわらず、そこから得られる情報のディティールが異なるという点で、未だ、ディスプレイは紙と同列にしては語れない。

●面積と情報量

 ここで、ちょっと脇道にそれて、面積と、それが抱えることのできる情報の量について考えてみよう。たとえば、今、使っているディスプレイでは、冒頭の写真は10.5×7.5cmで表示される。この面積に、この文章の本文と同じサイズの文字を並べると、32文字×16行、約512文字が入る。すなわち、1KB分だ。一方、写真のデータサイズは、ほぼ10KBある。つまり、面積あたりのデータサイズは10倍の開きがあることがわかる。

 画像はサイズが画質に影響を与えるので、ここでは、とりあえず、データサイズのことは考えないことにしよう。とりあえず、同じ面積で表現できる情報の質と量に注目してみる。

 フランスの文芸評論家ロラン・バルト(1915〜80)によると、写真は「コードなきメッセージ」なのだそうだ(沢崎浩平訳『第三の意味―映像と演劇と音楽と』みすず書房、1984年)。さらに、バルトは遺作となった花輪光訳『明るい部屋―写真についての覚え書き』(みすず書房、1985年)において、写真のノエマは《それは=かつて=あった》であるとする。

 写真は、撮影者などの説明なしでは、いったいどこで誰が何をしている光景なのかを知ることはできない。だから、目的のある写真には必ずキャプションがつく。キャプションがなければ、それが、何の写真なのかわからないからだ。ただ、写真の中に意図として埋め込まれた、あるいは、偶然、写りこんでしまっているコードによって、ある程度、その素性を知ることはできる。

 冒頭の写真を見ると、おそらく季節は夏で、人物が崖の上に立っているということまでが理解できる。わかるのは、その程度のことで、バルトがいうように、この写真は、現実のものとして、《それは=かつて=あった》ことしか示していない。

 実は、この写真は、2003年9月に、米カリフォルニア州にあるヨセミテ国立公園に行ったときのもので、ハーフドームという同公園のシンボルともいえる山の頂上に登ったときに撮影した。約1,500mの標高差を片道約8マイル(約13km)歩いて登ったのだ……などという背景は、こうして説明してやっと伝わるものだ。

 デジカメで撮影した画像なら、EXIFデータで日付や時間程度はわかるだろう。でも、これは、現像したモノクロフィルムをスキャナで読み取ったもので、そこに見えているもの以外、いっさいの情報はない。

 百聞は一見にしかずとはいうものの、単独で情報を伝えるという点では写真は無力だ。もちろん、それは、情報を伝えるという役割を担った写真の話であって、そうではないある種の写真に関しては、話はまったく別であるのはいうまでもない。

●そして小倉優子はどこにいる

 Zeitgeistによれば、2004年5月のGoogle検索キーワードランキングでは、タレントの小倉優子が人気キーワードの5位に入っている。個人名としてはトップに相当する。

 そこで、このキーワードで検索すると、この原稿を書いている現時点で105,000件がヒットする。オフィシャルなもの、アンオフィシャルなもの、リーガルなもの、イリーガルなものも含めて、雑多な情報が得られるわけで、その中には当然、彼女の写真も含まれている。けれども、その写真は、小倉優子というキーワードを使って検索したからこそヒットしたものであって、写真そのものには、何の情報も含まれていない。逆にいうと、写真だけを見せられても、小倉優子を知らない人にとっては、それが小倉優子であるということがわからないのだ。

 デジタルインクのシミのバックグラウンドに文字データが含まれるPDFやMDIのように、ウェブに置かれた図像の多くは、alt属性を使った代替テキストが用意されているため、比較的容易に特定の画像を検索することができるようになった。けれども、アクセシビリティをまったく考えずに作られたサイトの写真では、それこそ、探し出すのは困難だ。ちなみに、このシリーズの冒頭図像にも代替テキストは付加されていない。だから、この写真がヨセミテの画像として検索されることはないだろう。

 紙とディスプレイ。見かけの上では同じように見えても、そこには、根本的な違いがある。コンピュータの中の「コピー」をプリントして「オリジナル」を作るとき、得られるものも多いが、失われるものも多い。コンピュータのリアリティは、そんな場面にも見え隠れしている。


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(2004年6月25日)

[Reported by 山田祥平]

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