去る6月24日、シアトルでMicrosoftのビル・ゲイツ氏が一線からの引退に際して記者会見を行なった。一時代を築いたMicrosoftが、新しいフェイズへと変化するために乗り越えなければならない儀式といった報道が多いが、それ以外のさまざまな出来事やトレンドも考えあわせると、PC業界全体が1つの節目を迎えているように思える。 PC業界が今後、大きくしぼんでいく前触れという人もいるが、筆者はそうは思わない。確かに“PC業界のルールが変化する”時期ではありそうだ。しかし秩序が変化し、支配者が変化するからといって、業界が滅びへと向かうわけではない。大げさに言えば、PC業界は新しい秩序の中で従来とは異なる進化を求められているのだと思う。 ●独自性を失ったMicrosoft いまだに「強引な経営手法で競争相手を震え上がらせた」と表現されるゲイツ氏。しかし、長い間Microsoftを取材し、ゲイツ氏とも何度か会話することもあったが、ゲイツ氏は高圧的な態度で威嚇するタイプの人物ではない。 無論、負けず嫌いで激しいところはあったと伝え聞くが、相手を潰すのではなく、自分たちの製品をよくするために、どんなことが出来るのか。技術で相手を打ち負かすために、勝つまで開発を行なう激しさがゲイツ氏だったと思う。
先日、マイクロソフトで要職を歴任した古川享氏と久しぶりにお会いした。そのときにも、同じような話で盛り上がった。古川氏によると、ゲイツ氏は素晴らしい技術をライバルに見せつけられると、それ以上の製品開発をするように命じる。その点、まずはライバルを叩きつぶして更地にしてから、そこに新しいビジネスを構築するというスティーブ・バルマー氏のやり方とは正反対だったという。 ゲイツ時代のMicrosoftは、独創的な新しいアイディアは生み出さなかった。しかし有望な応用技術を見つけると、まずは自分たちで実装してみる。お世辞にもセンスが良いとは言えなかったMicrosoftの実装は、大抵は使い物にならない。しかし、使い物にならないとわかると、ユーザーからのフィードバックを元に何度でもバージョンアップで改善を加えていく。 “Microsoftの製品はバージョン3から良くなる”というのは、ある時期、定説として業界内で言われていたが、まさにその通り。勝てるまで開発を止めないことが、Microsoftを巨大な企業に成長させた原動力だったように思う。そうした意味では、独創性こそないものの、繰り返しの改良がMicrosoftの独自性を生み出していたとは言えるのではないだろうか。 しかし古川氏によると、2000年1月にCEOの座をバルマー氏に譲ると、徐々に経営上の権限をバルマー氏に委譲していき、自分はより技術開発に近い位置にいようと努力した。その結果、Microsoftの幹部たちは、ゲイツ氏に気に入られるために諦めずに何度も挑戦を繰り返すよりも、相手を屈服させるためのビジネス戦略を練る意識が強くなっていったという。 そのせいかどうかはわからないが、確かに取材対象としてのMicrosoftは2000年を境にして徐々に変化していった。それほど大きな変化がいきなり出てきたわけではない。それら1つ1つは非常に細かなことだが、それらが積み重なることで大きな違いを生み出していったのだろうか。 たとえばその頃から、要素技術に深く関わる人物は開発の前面ではなく後方部隊に埋もれがちになってきた。またマーケティングを語る人物でも、自社の技術やその技術が発展してきた背景について理解し、専門的な質問にも正しい答えができるエグゼクティブが多かったMicrosoftだが、2000年ぐらいからはWindowsの基幹技術に関わる質問も「知らない」という人間が、製品マーケティングの前面に立つようになってきた。 これらは単に“Microsoftが名実共に大会社になってきた証左”と当時は考えていたのだが、今や珍しいことだとは思わない。思い返しながら経緯を整理すると、なるほど、Microsoftも普通の会社になってしまったのだと改めて感じさせられた。 ●変化したルール PC業界のルールが大きく変わった瞬間は'94~'95年にもあった。Windows 95が発売されたから……ではない。この頃、それ以前から普及の兆しを見せていたインターネットがいよいよ世の中を変え始めていた。 この時、Microsoftはインターネットの力を甘く見て失敗しかけている。Windows 95はTCP/IPスタックこそ標準装備していたが、Webブラウザや電子メールにアクセスするツールは用意されておらず、メディアリッチなパソコン通信クライアントの開発に力を入れ標準装備していた(このパソコン通信サービスが、現在のMSN)。 しかしPlus!パックを提供することでインターネット対応の体裁を、どうにか整えて、あっと言う間にライバルを蹴落としてしまった。当時、Microsoft本社に勤めていた人間によると、ある日、全社員に向けて「これからはインターネットへの対応、応用を最も優先すべき事項として、戦略をまったく新たにして仕事をしよう」といった趣旨のメッセージが発信され、Microsoftは時代遅れになる寸前で正しい方向へと向いた。 そんな“変わり身”の早さは、今のMicrosoftにはないのかもしれない。たとえばWindows 7には、期待されていたような軽量版カーネルは用意されず、Windows Vistaの改良型という位置付けになるとMicrosoft自身が話している。しかし、現在のWindowsクライアントは1つのアーキテクチャで携帯デバイスからワークステーションまでを支えられる柔軟性の高い構造になっているとは思えない。 たとえば、従来ならば新しいWindowsが“少しばかり重い”と言われたとしても、半年も経過すれば、誰も文句を言わなかった。やっぱり新しいOSの方が良いという、当たり前の結論がすぐに出ていたからだ。
しかし昨年、VistaからXPへのダウングレード権が話題になると、これを実践する人が数多く出てきた。メーカーも一部にXPへのダウングレード用DVDを添付、あるいはオプションで販売するところが出てきた。たとえば東芝は一部機種に、XPをOSとした際に必要なユーティリティやドライバを含むリカバリDVDを、あらかじめ添付して販売している。 以前ならば選択肢はあったとしても、実際にそれを望む人が少なかったダウングレードを、メーカーがコストをかけてまで別DVDとして添付し始めている理由は、そうしたDVDの添付を望む声が予想外に多かったということだろう。 いろいろなところで、それまでの常識が破られ、ルールが変化し始めている。 ●市場環境が変わればビジネスモデルも変化する 新しいムーブメントが起きるとき、大抵はそのことが不都合な“ある人”が存在するものだ。例えばデジタルカメラの普及は、街の写真屋さんのビジネスモデルの変化を促した。インターネットの普及は、紙の雑誌が持っていた役割の一部を代替するようになり、相対的に広告的価値は下がってしまった。原油価格の高騰はビニールハウス栽培から自動車産業に至るまで、幅広い業種にビジネスモデルの再構築を迫るに違いない。 こういう時に頑張って、アンシャンレジュームが如く以前と同じ体制を維持しようという“別の人”も存在するだろうが、大抵の場合、どう頑張ってみても体制はひっくり返る。時期が早いか遅いかの違いだけだ。 インターネットによるルールチェンジには、素早く体制を立て直したMicrosoftだが、ソフトウェアの価値がネットワークサービスへと移管されていくプロセスの中にあっては、新しい体制を作り出せずにいる。同時に2つのことが同時進行し、以前ならば考えられなかったMicrosoftの存在感低下に拍車をかけているからだ。 1つはソフトウェアによる新しいイノベーションを、明確な形で提供できていないことだ。Microsoftが生み出してきた価値(代表的にはOfficeやWindows Mediaなど)には、いずれも充分な機能を持つ代替ソリューションが生まれている。加えてそれらはMicrosoft以外の選択肢はマルチプラットフォーム化されてるので、Windowsへの依存性も低い。 もう1つは独自ソフトのライセンスというビジネス形態が、インターネットを通じてサービスとしてアプリケーションを提供する、近年のビジネスモデルにうまくフィットしないことある。ありきたりだが、Googleが今のまま進化していけば、いずれはMicrosoftからドル箱の製品を奪っていくことになると思う。 身近な例で考えてみると分かりやすい。以前は地図ソフトや路線検索ソフトなどがたくさん売れていたが、今はすべてネットサービスで事足りるようになった。GoogleはOfficeアプリケーションと似た機能を持つ英語のβ版サービスをGoogle Docsとして提供しているが、こちらはまだ十分とはいえない。しかし、将来はどうなるかわからない。 Microsoftはかつて、何度かOfficeをサブスクリプション(購読)モデルで購読料を徴収して使ってもらえないかと、いくつかのプランを検討していたことがある。しかし、実際にやるとなると難しく、何度も挫折を繰り返してきた。現在のビジネスモデルが成功しているうちは、なかなか既存の手法を捨てて新しい領域には踏み込めないものだ。 結局のところ、Microsoftは自分たちの勝ちパターンを崩せないが故に、身動きが取れなくなっている状態なのだと思う。 しかし、それでもまだMicrosoftは良い位置につけている。 理由は簡単だ。アプリケーションが単一のPCローカルで動作するものだった時代に進化してきた同社の製品と同レベルのユーザー体験を提供できるネットワークサービスは、まだどこにも存在していないからだ。つまり、アプリケーションの機能や使い勝手は、ネットワークサービスになった時点で、一度はメタメタなほどに退化している部分があり、そこにMicrosoftの経験が活かせると思うからだ。 もし、Microsoftが自分たちの勝ちパターンを捨ててまで、新しいビジネスモデルの構築に挑戦しようと約9万人の社員が1つの方向へと向き直れば、あっと言う間にライバルに追いつける。それだけの潜在能力を持つのがMicrosoftだ。問題はただ1つ。ルールの変化をMicrosoft自身が受け入れられるかどうかだけだ。
□Microsoftのホームページ(英文) (2008年6月30日) [Text by 本田雅一]
【PC Watchホームページ】
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