Vista2.0としてMac OS X "Leopard"の概要が紹介されたことで、2007年の出荷が予定されているWindows Vistaは、早くもクラシカルなOSの烙印を押された感がある。だが、本当にLeopardが、Vistaをはるかに凌駕する秀逸なOSであるかどうかは、ふたをあけてみなければわからない。 ●似て非なるOS 確かにここのところのMacOS XとWindowsは似ているといえば似ている。デスクトップメタファは以前から同じだし、Vistaのフォルダウィンドウのアドレスバーを見ていると、フォルダツリーを明確にGUIで表現する様子はMacを参考にしているようにも思える。 デスクトップ下部に並ぶタスクバーボタンはWindwsならではだが、起動済み、未起動の概念がいまひとつ曖昧なMacOSでは、この部分にアプリケーションのアイコンが並び、そこから必要なアプリケーションを呼び出す。つまり、スタートメニューとタスクバーボタンが兼用されているわけだ。 気になるのは、純粋にグラフィカルな要素で構成されたGUIというよりも、文字が読めることを前提にしたGUIが1つのトレンドになりつつある点だ。もちろん、アイコンでアプリケーションやファイル内容を想像することはできるし、サムネール表示の機能も高度化されてはいるが、基本的には文字が読めないことには、目の前にあるパソコンを掌握することはできない。Vistaでは、NTFSのジャンクションと呼ばれる機能を駆使し、欧文フォルダ名に日本語フォルダ名を持たせることで名前を二重化してまで、少しでもわかりやすい文字GUIを提供しようとしているし、Macでは、UNIXのシンボリックリンクが同様の目的で使われている。iTunesなどのアプリケーションを見ていると、本当にこれをGUIと呼んでいいのか、ちょっとためらってしまうくらいだ。 ●変わるGUI パソコンが日常的に使われるようになって、すでに10年以上が経過しているといってもいいだろう。'95年のWindows 95発売当時に生まれた子どもはそろそろ小学生だろうか。彼らにとって初めて目に触れるコンピュータがデスクトップメタファを持っていたわけだが、それが模倣した机の上でのキャビネットやフォルダ、書類のファイリングといった実作業を経験することはかつてなかっただろうし、これからもないかもしれない。 その一方で、携帯電話はまさに生活必需品のように、ライフスタイルに取り込まれている。普通の家庭なら、3つや4つのリモコンが平気でころがっているだろう。 しかも、これらのユーザーインターフェイスは、ポインティングデバイスを使って操作する純粋なGUIでは決してなく、方向キーによって操作する文字主体のインターフェイスだ。家庭用ゲーム機だって似たようなものだし、いわゆる10フィートUIは不自由を楽しんでいるようにしか思えない。本来なら画面上を自由に動き回れるはずのポインタを上下左右にしか動かさないのだから。 少し前に、パソコンのフルキーボードを使って文字を入力するよりも、携帯電話のボタンで日本語入力する方が高速に文字入力ができるといって、ミーティングの議事録を携帯電話でメモする新入社員の様子を風刺したギャグを見たことがあるが、それが決して笑えないようになってきている。 ●ファイルとデータ こうしたトレンドが、GUIの将来に影響を与えないはずがない。というよりも、本当は、そろそろデスクトップメタファに代わる、世代を新たにしたUIが出現しても、ちっともおかしくない時期にきているだろうに、その気配は希薄だ。 Mac OS X Leopardのデモンストレーションでは、4つの仮想デスクトップを用意し、それぞれをワークスペースとして画面を4分割して表示、それぞれのスペース間でウィンドウを移動させる様子が披露されていたが、これならすでにフリーウェアなどで実現できていることのようだし、WindowsにもPowerToysのVertial Desktopというユーティリティを使えば、スペース間でのウィンドウ移動はできないにせよ、4つのデスクトップを切り替えて利用できる。鳴り物入りで紹介されるような機能とは思えないのだ。本気で、これ以上、デスクトップという考え方を進化させようとしているだけなのか。 そもそも、ファイルやファイル名、フォルダ、さらにはウィンドウという呪縛から解放されてもよいころではなかろうか。何かを入力したら必ず保存しなければならない。そうしなければ、電源を切ったとたんにすべてが失われてしまう。コンピュータを使うにあたり、ぼくらはそう教わってきた世代だが、実際、携帯電話はそうなっていない。なにしろ、携帯電話はスタンバイ状態にさせるよりも、リセットしたり、シャットダウンする方が難しいのだから、コンピュータとは根本的に接する態度が異なってくるのは当たり前だ。 今、アプリケーションの中では、かろうじて、データベースが保存という概念にとらわれずに使えている。ファイル名はあるし、データベースの実体もあるが、入れたり書き換えたりしたものは、その場でデータベースファイルに反映される。通常のアプリケーションではMicrosoft OfficeファミリーのOneNoteがそうだ。書いて閉じる。そして次に開けば直近に書いたものがすぐに出てくる。ここではファイル名を気にする必要はないし、保存を考える必要もない。 すべてのアプリケーションが1つのファイルにデータを書き込み、その中から任意のデータを秀逸なGUIで取り出すことができるようなメタファがあってもいいのではないか。本来、ディスクシステムとはそういうものであったはずだが、それではわかりにくいので、意味のあるデータの集合に名前をつけ、それをファイルと呼ぶようになった。それがファイルシステムだ。キーボードは入力専用のファイル、画面は出力専用のファイルという考え方は美しいが、データファイルもまた、ドラえもんのポケットのように無限にデータを入れたり出したりできる汎用入出力先として扱うことに再帰できれば、新しい何かが見えてくるように思う。
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(2006年8月18日)
[Reported by 山田祥平]
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