大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

メルコ創業者の牧誠氏が逝去。メルコの成り立ちや顧客主体の戦略を振り返る

牧誠氏(2004年撮影)

 メルコホールディングスの創業者であり、取締役会長の牧誠氏が、2018年4月3日、心不全のため逝去した。享年69歳。

 取材の場でも、にこやかな笑顔と、丁寧で、温厚な語り口が印象的だった。だが、その一方で、太く強い芯が通った人物でもあった。それは取材の端々でも感じることができ、幹部社員などに見せていた厳しさ態度からも伝わってきた。

顧客に還元する姿勢

 かつてこんな話を聞いたことがある。

 1992年に名古屋市郊外の柴田に自社ビルを購入し、メルコハイテクセンターを開設した時に、管理部門の判断で、大理石をあるエリアの装飾に使ったという。だが、それを知った牧氏は、出来上がったばかりのそのエリアをすぐに壊すことを命じたのだ。理由は、「大理石がある社屋が、メルコの社屋の基準になってはいけない」ということだった。当時の社員からは、「アンモナイトの化石が入った、かなり高価なものだったはず」という話も聞いていたが、それでも牧氏はそれを社屋から撤去した。

 柴田のビルはその後本社となり、2010年には、大須に戻る形で、現在の本社を移転した。この大須への本社移転のときには、1988年に購入した応接セットを、わざわざ倉庫から引っ張りでしてきて再利用した。

 東京支店も、かつては山一證券本社ビルであった茅場町タワーのオフィス部分の最上階となる16階にあるが、かつては役員フロアであったと推察される場所にも関わらず、華美な様子はまったく見られない。

 豪華すぎる社屋は、メルコの社風にあわないというのが牧氏の考え方であり、これは、利益を少しでも顧客に還元するという姿勢の裏返しであったとも言える。

 1986年にメモリボードを発売した時には、メルコの利益率を20%以下に抑えた。周辺機器や消耗品は利益率が高い商材と言われるが、これも、ユーザーが少しでも購入しやすい環境を実現するための一手だった。結果として、この施策は他社が参入するさいの障壁にもなり、当時は、アイ・オー・データ機器とともに二強体制を敷くことになった。

 もう1つ、牧氏の取材を通じて感じたのは、PC業界のこと、そしてメルコの将来のことを真剣に考え続けた人物であったということだ。

 1990年代前半にPC業界が低迷しているさいに、牧氏に取材を行なったことがあった。そのとき、こちらが質問を始める前に、「いつもそんなに暗いニュースばかりを書いていてどうするんだ」と切り出された。「本当に暗いニュースしかないのか。あらゆる角度から見たり、分析してみれば、暗いニュースばかりではないはずだ。そして、長期的視点でみれば、PC業界がこれから成長することがわかるはずではないか」と牧氏は、畳みかけるように語ったことを思い出す。

 PC業界全体のことを真剣に考えている牧氏だからこそ、当時の若手記者にも苦言を呈したのだろう。

 大局で物事を捉えるのも牧氏の特徴だ。

 1991年に店頭公開した当時のメルコの売上高は110億円。そのときに、牧氏は、9倍もの売上高となる1,000億円を目指す計画を打ち出してみせ、2003年度にはそれを達成している。長期的な視点での事業計画を打ち出し、それを有言実行する経営者であった。

 売上高1,000億円を達成した2003年度には、メルコからバッファローへと社名変更したのにあわせて、「森の経営」と呼ぶグループ構想を示した。

 若いときから山登りが好きだったという牧氏は、山に登ってあることに気がついた。

 「森は、何千年、何万年と続くが、そこに生えている木は、100年、200年で枯れ、それが養分となり、また新しい木を育み、さらに大きな森を形成する。今後のメルコの事業体制も、これと同じなのではないか」。

 ヒト、モノ、ノウハウを蓄積するのが、持株会社のメルコホールディングス。これが森の土壌となる。そして、周辺機器のトップベンダーであるバッファローや、玄人志向ブランドを手がけるCFD販売などの企業が、この土壌に生える木々だ。

 森の経営は、まさに長期的視点に立ったグループ構想である。

 そして、同社の基本姿勢となるメルコバリューのなかでは、「千年企業」を打ち出している。

 ここでは、「私たちは、先人の教えを真摯に学び活用し、常に未来を見据え、メルコバリューを共有する全ての人たちと共に、メルコグループの永続的な成長を目指します」としている。

 このように、経営戦略や業界の成長などを、大局的に、そして長期的視点で常に考えていたのが牧氏であった。

オーディオメーカーからスタートしたメルコ

牧誠氏(2004年撮影)

 牧誠氏は、1948年4月29日生まれ、名古屋市出身。実父の牧清雄氏は、「流水麺」、「鉄板麺」などの麺類を製造、販売するシマダヤの創業者であり、メルコホールディングスは、2018年4月1日付けで、シマダヤを完全子会社化している。

 早稲田大学理工学部物理学科卒業。同大学院理工学研究科応用物理学修士課程を修了後、1973年に、オーディオ機器メーカーのジムテックに入社した。

 「大学院では、半導体の表面物性の研究をしており、半導体メーカーに就職したいと思っていたが、求人がなく、自分の趣味を生かせるオーディオメーカーへの就職を決め、2年間住み込みで勤務した」(牧氏)という。

 1975年に名古屋に戻り、個人経営のメルコを創業。アンプ専門オーディオ機器メーカーとしてスタートした。メルコ(MELCO)は、Maki Engineering Laboratory Companyの頭文字をとったものであり、牧氏の名字がもとになっている。じつは、MELCOブランドは、三菱電機が、Mitsubishi Electric Corporationの略称として用いており、とくにオーディオブランドとして使用することは三菱電機との間で長年に渡って協議が行なわれてきた案件だった。2014年から、欧州市場に限定して、MELCOブランドのオーディオ製品が発売できるようになったが、オーディオメーカーとして創業した牧氏にとって、この決定は感慨深いものだったと言えるだろう。

 1975年にオーディオメーカーとしてスタートしたメルコは、牧氏が製品をつくり、友人が販売するという体制でスタートしたが、1年後にはオフィスのなかが在庫の山になってしまった。「最初は売れ行きの調子がよかったこともあり、無鉄砲に作りすぎてしまった」(牧氏)のも原因だった。そこで、牧氏は、自らもアンプを売り歩くことにした。トラックにアンプを満載して、飛び込み営業を繰り返し、全国を行脚したという。「とにかく音を聴いてもらいたい」というのが牧氏の営業トーク。移動は道が空いている夜間を利用する強行軍だったという。

 それまで営業経験がなかった牧氏は、この全国行脚でも惨敗の結果だったというが、このときの経験が次の製品づくりに役立ったと振り返る。

 「なぜ、このアンプが売れないのかを考えたとき、たどり着いた結論が、自己満足するだけの製品を作っていたということ。お客様がどういう製品が欲しいのかを、まったく考えていなかった」。

 名古屋に戻った牧氏は、1978年に、メルコを株式会社化するとともに、糸ドライブを採用したターンテーブルユニット「3533」を開発した。「3533」は、20kgという重さを持つ砲金製ターンテーブルを採用。それによってテーブルを安定させ、糸ドライブによって、モーターの振動を伝えないといった工夫が凝らされたものだ。価格は約70万円だったが、発売直後に数百台の注文が入り、受注残が解消するまで半年間もかかるヒット製品になったという。これは顧客が欲しい製品とはなにかを追求したものだったという。

 メルコがPC周辺機器事業に参入したのは、1981年にコンピュータ事業部を設置したのが始まりだが、きっかけになったのは、意外な出来事だった。

 ある販売店のオーディオ売り場担当者が、PC売り場に異動。牧氏が挨拶がてらPC売り場を訪ねると、その担当者が開口一番発した、「牧さん、PCがやたら売れているよ。これからはPCの時代だよ」という言葉を聞いたことだったという。

 PCの勉強を始めた牧氏は、自力でP-ROMライター「RPP-01」を開発。これをパソコン専門誌に半ページのモノクロ広告を掲載したところ、月に200台も売れる人気を博したという。

バッファローの由来

牧誠氏(2005年撮影)

 そこで、PC周辺機器事業への本格参入を検討。最初の製品としてプリンタバッファ「PB-32」を開発し、市場投入したのだ。

 ちなみに、現在の社名にも使用されている「バッファロー」ブランドは、PC周辺機器事業に本格参入したさいに、最初の製品となったプリンタバッファのブランドを一般公募し、そこで採用されたものである。バッファと、動物のバッファローを掛け合わせた語呂あわせの面白さと、バッファローが駆け抜けるイメージが同社のイメージにぴったりとの理由で選ばれたという。

 ちなみに、プリンタバッファとは、PCからプリンタに送られる印刷データを、プリントアウトする前に、一度、このプリンタバッファに溜めることで、PCの待ち時間を短縮。PCをほかの作業に利用できるようにするものだ。いまでは考えられないかもしれないが、PCの黎明期には重宝された周辺機器の1つであり、メルコはこの市場で約8割のシェアを獲得していた時期もあったほどだ。

 当時は、プリンタバッファに使用されるDRAMの価格が高かったため、プリンタとプリンタバッファが同等価格になってしまうという状況が生まれようとしていたが、牧氏は試作品が完了してから約1年間をかけてコストダウンに取り組み、3万円を切る価格で販売することにこだわった。これは、ユーザーの手元に届く最終価格を重視する牧流と言える手の打ち方だ。当時のプリンタ本体の価格は10万円以上しており、29,800円で発売されたこのプリンタバッファは、多くのユーザーにとって手に届く価格帯となったことで、月数千台規模で売れる大ヒット製品になったという。

 ちなみに、このとき、DRAMの価格変動などについて学んだことが、その後のメモリ事業を推進する上でのノウハウ蓄積にもつながっている。

 プリンタバッファでPC周辺機器事業を本格化した同社は、メモリボードやHDD、CD-ROMドライブ、無線LANルーターなどに製品群を拡大。PC周辺機器メーカーとして、成長を遂げていったのは周知のとおりだ。2001年には無線LANルーターの自動設定技術「AOSS」を開発。ボタン1つで無線LANの接続設定できる手軽さが受けて、多くのメーカーが製品に採用した。

長男・牧寛之氏へのバトンタッチ

 2014年6月、牧氏は、代表取締役会長に就任し、長男である牧寛之氏へと、社長のバトンを渡した。当時、牧寛之氏は34歳という若さだったが、2014年春頃から、牧氏は体調を崩しはじめており、早期に新社長体制へ移行することで、牧誠氏が持つ経営ノウハウなどを、牧社長へと継承する狙いがあったと言える。

 翌年となる2015年には、メルコグループは、ちょうど創業40周年を迎えたが、同年の方針の1つに、「創業者である牧誠が築いた事業基盤の円滑で混乱のない承継を完了すること」を掲げていた。

 牧氏は、2017年10月には、代表権のない取締役会長となり、このときに、事実上の継承が完了したといっていいだろう。

 PCの黎明期には、脇役の存在でしかなかったPC周辺機器メーカーを、PCやインターネットを活用するためには不可欠な製品群をになう、欠かすことができない存在感を持った企業へと成長させる一方、PC業界の発展を支えた牧氏の貢献は多大なものだった。

 ご冥福をお祈りする。

 なお、お別れの会が、5月14日午前11時から、名古屋市西区のホテルナゴヤキャッスルで行なわれる予定だ。