山田祥平のRe:config.sys

持つ楽しみと持たない楽しみ

 本来、コンテンツはそれを見たり聴いたりする権利を購入するものだ。だが、コンテンツの入れもの、つまり、メディアがなければその権利を行使することはできなかった。だから、本やディスクを買って手元に置いてきた。その常識が常識ではなくなりつつあるのが今という世の中だ。

モノとしてのコンテンツ

 四半世紀近く倉庫に置きっぱなしだった荷物を手元に取り寄せた。段ボール箱に12箱で、中味は約1,000枚のLPレコード、100枚ほどのEPレコード、そして100枚ほどのレーザーディスクだ。自分が聴く音楽をCDに切り替えた1985年頃以前に買いためたものだ。

 深い理由はないが、手元に置いておきたいものを厳選し、残りを処分しようとなんとなく決めたのだ。レコードプレーヤーもレーザーディスクプレーヤーも稼働状態では手元になく、やはり倉庫に置いてある。

 段ボール箱の中のLPレコードジャケットをパラパラとめくっていくと、やはり30×30cmのジャケットというのはインパクトがあって、一目見ただけでそのレコードがどんな印象だったかを思い出せる。CD以降の世代にはわからないかもしれないが、まさにめくっているという感覚だ。1枚1枚ジャケットをめくり、針を落としたい衝動にかられながらも、今はガマンで100枚程度を厳選したが、処分するべきではない盤がもしかしたら残っているのではないかと心配で、まだ、引取業者を呼べず、部屋のなかに段ボールが鎮座している。

 こんな具合にLPレコードには思い入れが強いのだが、不思議なことにレーザーディスクについてはさほそ執着心がない。レコードは繰り返し聴くのが当たり前だったが、映像コンテンツについては一度か二度視聴したらそのままということが多かったように思う。その傾向は、LPがCDになり、レーザーディスクがDVDやBDになっても変わらない。CDは購入を続けてきたが、DVDやBDはほとんどレンタルですませてきた。

 いっそのこと、すべてのLP、EPを一気に処分しようとも思ったのだが、さすがにそこまでは思い切れないのは不思議だ。処分したくないという気持ちになるのは繰り返し聴いたお気に入りのものが多いが、そのくらいのお気に入りはCDで買い直しているし、歳月を経て、リマスタリングされたものが再発売されたらまた買ってということを繰り返してきた。音源は手元にあるのだから、オリジナルの古いLPがなくなっても困ることはないはずだが、なぜか処分する気になれないのだ。アナログルネッサンスのLP音源をありがたがる気持ちもあまりないと思っているが、もしかしたら、そういう気持ちも心のどこかにあるのかもしれない。

 その一方で、それほど聴いたわけではないのに、なぜか、処分する気になれない作品もある。CDを持っているわけでもないし、それどころかCDでの購入ができないマイナーなものもある。それを処分してしまうと、もう一生聴けないということになりかねない。それが怖くて手放せないものもあったりするわけだ。

 とにかく、いつまでも段ボールの谷間で暮らすわけにはいかない。名残惜しいし未練もあるが、そろそろ訣別のタイミングを決めなければなるまい。

定額制配信サービスとコンテンツ

 音楽にかぎらず、コンテンツはとにかく場所を取る。コンテンツにはかたちがないはずなのに、メディアそのものに形があるから、権利がスペースを占有するという不思議な現象が起こる。

 ところが今のコンテンツの楽しみ方は、ダウンロード型を経てオンデマンドの放題サービスが主流になった。これは音楽や映像にかぎったことではなく、読み物なども同様だ。

 先日、YouTube Musicのサービスがはじまったのでお試しをしている。アップルのApple MusicにもアマゾンのMusic Unlimitedにも、LINE MUSICにも、SportifyにもGoogle Play Musicにも食指を動かされずに、気に入ったコンテンツについてはCDを買い続けてきたのだが、心のどこかでもういいかと思いはじめている。

 少ない小遣いでコンテンツの購入にも相当の勇気が必要だった中高生の頃は、毎日ラジオで流れる音楽をチェックし、気に入ればカセットテープに録音して繰り返し聴いたし、それでもほしいと思ったものだけをなけなしの小遣いで購入していた。

 ちょっと大人になって東京に出てきてからは、足繁く輸入盤ショップに通い、ジャケ買いやプロデューサー、参加アーティストなどを見てLPを買うようになった。購入した数枚のLPを手に自宅に戻って針を落とした瞬間に、叩き割りたくなるような失敗もなかったわけではないが、あまり大きな失敗はしなかったように記憶している。今のように購入前に詳しい情報が手に入るわけではなかったが、選ぶカンのようなものが自分のなかにできあがっていたのだと思う。ちなみにLPレコードは割れない…。

 そして今、聴き放題のYouTube Musicを楽しんでいるのだが、適当なプレイリストを選んで流しっぱなしにしていると、耳に心地よいという感じの曲がかかる。これは、昔、ラジオで偶然流れた曲を気に入った感覚に似ている。当時はその曲のタイトルやアーティスト名を急いで書き写したりしたものだが、今は、評価ボタンを押すだけでいい。いわゆる「いいね」を押せば、高く評価した曲として記録される。

 逆に言うとこの評価をしないと二度と聴けなくなってしまう可能性もある。だから、とにかく曲を流し続け、気に入らなければスキップして次の曲にいき、気に入れば評価ボタンをタップする。スマートフォンで楽しめるのはもちろん、PCでも同様に楽しめるし、評価や登録したプレイリスト、アルバム、アーディストなども同期されるのは便利だ。

コトとしてのコンテンツ

 もっとも、聴き放題のサービスには、そのサービスに対して永久に料金を払い続ける必要がある。あくまでも聴く体験をそのときかぎりで提供するサービスだ。払うのをやめたとたん、自分のお気に入りのコンテンツは消えてしまう。いわゆる物理的なメディアコレクションという概念がないので、サービス加入をやめたらそれまでだ。手元にはなにも残らない。残るのは思い出だけだ。つまり、コンテンツを一生楽しむ権利ではなく、カネを支払っている期間だけコンテンツを楽しめる権利を購入するわけだ。

 LPやEPの処分にあたり、CD化もされていないし、される予定もなさそうなコンテンツが聴き放題サービスで聴けるようになることはないのだろうか。いや、逆に、オンデマンドプリンティングで絶版の書籍が蘇るように、CD化やCD再プレスは難しくても、オンデマンドでの提供のほうが権利者にとってのハードルが低く、リスナーにとっては聴きたくても聴けなかった楽曲をもう一度楽しめるようなサービスになる可能性もあるかもしれない。

 実際、YouTubeをザッピングしていると、第三者が提供するお宝映像や音源に出会うことがある。はっきり言って権利関係がどうなっているのかきわめてグレーなのだが、ずっと放置されているところを見ると、それをアップロードしたユーザーと収益を分配している可能性もある。異議を申し立ててブロックしてしまえばそこから収益は生まれないが、許諾することで、本当なら誰もふれることができないはずのコンテンツが新たな収益を生む可能性も出てくる。権利者にとってはそのほうが幸せかもしれない。

 いずれにしても、聴き放題サービスの台頭は、コンテンツの所有という考え方に大きな影響を与えてきたし、これからもそうだろう。持つ楽しみだったコンテンツが、少しずつ時間をかけて持たない楽しみに変わっていく。なにを今さらといわれそうではあるが、それも時代というものなのだろう。そのことが、コンテンツそのものにどのような影響を与えることになるのか。コレクターという言葉は死語になってしまうのだろうか。それがはっきりとわかるまで、あと四半世紀は生きていたいものだ。