山田祥平のRe:config.sys

紙の呪縛



 マウスが、なぜ、マウスと呼ばれるようになったのか。この名前を最初に使ったのは誰かということをはっきりと知っている人間はいないのだそうだ。仲間内で使われるようになり、それが定着してしまったと。少なくとも、マウスの発明者として有名なダグ・エンゲルバート氏はそう回顧している。

●未だにマウスを超えられない

 マウスが初めて公のものとなった歴史的な現場としては、1968年12月に、サンフランシスコで開催されたフォール・ジョイント・コンピュータ会議が有名だ。

 約30マイル離れたスタンフォード研究所と(SRI)とサンフランシスコダウンタウンにある会場のBrooks Hallを回線で結び、NLS(oNLineSystem)を紹介したエンゲルバート氏は、講演の終盤に、画面に「穴」をあけられることを示している。この「穴」こそが、現在のウィンドウであることはいうまでもない。ちなみに、この「穴」という訳語は、原文では「hole」となっている(ACMプレス編、村井純監訳、浜田俊夫訳「ワークステーション原典」アスキー、1990年)。この論文集は、1986年1月に、米パロアルトにおいて、Association for Computing Machinery(ACM)によって開催された「A History of Workstation」という会議の記録だ。

 1968年当時、エンゲルバート氏の講演を手伝ったSRIのメンバーたちは、のちに、ゼロックスのパロアルト研究所でSTARの開発に従事することになる。また、この講演に立ち会い、感動したアラン・ケイは、ダイナブックの構想に勤しむ。現在のGUIのルーツになる要素がビッシリとつまっているわけで、まさに、歴史的な講演と呼ばれるに値する。

 エンゲルバート氏は、三輪車の例をひきながら、バランスをとる必要がなく、初心者にも簡単に覚えられ使いやすいが、二輪車(つまり自転車)の乗り方を会得するのに要するのはたった数時間だという。まさにマウスは三輪車であって、いつまでも使われ続けるものではないということだ。

 にもかかわらず、ぼくらは、お目見えから数十年が経過した今も、マウスを使っている。熟練したパソコン使いであれば、キーボードショートカットを駆使し、マウスに手を触れることは、めったにないかもしれないが、それでもパソコンにマウスはつながっているだろう。

 個人的には、マウスよりもペンの方が、より三輪車的ではないかと思う。だが、ディスプレイを机に垂直に置く場合は、ペンを持つ手のひらの付け根を置く場所が確保できないので不安定さを感じる。かといって、ディスプレイを机に水平に置くと、天井の照明が反射して見づらいし、キーボードとの共存が難しい。ディスプレイをのぞく首の角度も疲労を招きやすい。さらに、マウスを使う場合、机の上での向こう手前の動きは、ディスプレイでは上下の動きに対応するわけで、常に、頭の中で、その位置関係を考慮しなければならない。

 いずれにしても、文字入力にキーボードを使う限り、マウスの操作に際しては、キーボードから手を離す必要があるため、最良の方法とは言い難い。キーボードから手を離すことを回避するために、後に、スライドパッドやスティックなどのデバイスが生み出されているわけだが、今のところ、マウスに優る使い勝手が提供されているとは思えない。

●自然なものとは、単に慣れ親しんでいるものにすぎない

 紙とペンのメタファを捨てることができれば、きっと、今のコンピューティングは大きく違ったものになっていただろう。ウェブは、そのうってつけのタイミングになってもよかったはずなのに、なくなったのはページの長さに関する概念にすぎず、今なお、スタイルシートによる縦長レイアウトが幅をきかせている。以前にも書いたが、ディスプレイは横長なのだから、それに最適化された横長レイアウトのウェブサイトが主流にならないのはなぜなのだろう。

 パソコンの普及が、ペーパーレスどころか、かえって紙の使用を増加させてしまっているのは衆知の事実だ。このことは、Excelの進化を見ても実感できる。最近発売された「Excel 2004 for Mac」などは、ページレイアウトビューなるものが用意され、ワークシートを一定の紙サイズに集約する苦労を軽減する。スクロールによって、紙では不可能な広大な表を作ることができるにもかかわらず、物理的な紙のサイズに制限されながら表を作るというジレンマは、よくよく考えてみれば、実に滑稽なことであるはずだ。でも、きっとこの機能は歓迎されるのだろうし、次期Windows版Excelにも搭載されるに違いない。ぼくらは、発想的に縦方向に紙を追加することには慣れていても、横方向に紙を足すことには躊躇する。良くも悪くも紙に束縛され続けているわけだ。

 エンゲルバート氏は「自然なものなど存在しない、自然なものというのは、単に慣れ親しんでいるものにすぎない(ワークステーション原典)」という。そして、文書処理のアプローチとして、伝統的なワードプロセッシングが、基本的にハードコピーを作成することだけを念頭に画面上に擬似的に紙をつくりだすという考え方だとして、それが、いかにも魅力のないやり方だと言い切る。

●殴り書きのできる電子の紙が欲しい

 習得が簡単ではあっても、いかにも不自然なマウスという存在に慣れ親しむことができてしまったぼくらである。だったら、紙以外の何かを受け入れる素養はすでにあるんじゃないだろうか。

 今、身の回りを見渡したときに、容易に入手できるアプリケーションとして、紙の呪縛を解き放とうとしている態度が強く感じられるものに、マイクロソフトのOneNoteがある。初版で、まだ、荒削りな面が多々見受けられるため、常用するには至っていないのだが、少なくとも、美しいハードコピーを得ることが最優先されていないことに志を感じる(実は、それこそが、本当の紙なのかもしれないのだが)。

 OneNoteでは、電子の紙が用意されるという点ではワードプロセッサに似ている。ただ、縦横のサイズは規定されていない。すなわち、マス目のないExcelのようなものだと考えればいい。

 OneNoteが提供する紙の上には任意の位置に、任意のオブジェクトを置ける。文字、図形、画像、音声など、なんでもこいだ。この点ではPowerPointに似ている。

 できないことがあるとすれば計算だ。ダイナミックなオブジェクトを挿入することができないので、Excelの助けを借りることもできない。ワークシートの内容を貼り付けても、それは、テキストデータとして挿入されるだけだ。

 それでも、考えをまとめる道具としては、今までになかった使い勝手を提供する。ハードコピーを求めなければ、これほど自由になれるのかといったところだ。

 でも、まとめた考えは、最終的に何らかの形で他者に伝える必要がある。そのときには、やはり、紙が前提となるし、電子的にプレゼンテーションするにしても、1画面という制約が発生する。思いつくままに、適当に放り込んだオブジェクトが、時系列を考慮した上で解析され、それなりに美しくまとめてレイアウトして出力するということができれば、使い甲斐はかなり向上するのではないだろうか。

 どうせ、最終的には第三者に見せなければならないのだからと、ぼくらは、考えをまとめる過程でさえ、その見栄えを気にしながら、データを入力している。まずは、その部分を切り離さなければ、事態は何も変わらない。

 とにもかくにも、エンゲルバート講演が、はるか昔の話になった今でも、日々の暮らしの中の、ふとしたひらめきを、そのオブジェクトの種類にかかわらず、なんらかのカタチとして残すためのアプリケーションが皆無であるというのはゆゆしき問題だ。


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(2004年9月10日)

[Reported by 山田祥平]

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