2002年1月22日、フレッド・アブラムソン氏はヘイワード・エグゼクティブ・エアポートにある自家用飛行機の格納庫に入り、趣味のアクロバット飛行を何回もした愛機の隣でゴミ袋を頭からかぶった。そして袋にガスのホースを引き込み、コックをひねった。 数分後、彼は息絶えた(「Pilot's suicide ends tax saga」2/26/2002, SanJose Mercury News)。 この小さな死は、シリコンバレーに大きな衝撃を与えた。なぜなら多くのハイテクワーカーが、アブラムソン氏の死を、他人事とは思えなかったからだ。 アブラムソン氏はMIT出身の優秀な数学者で、元Rambus社員だった。 彼が一時は自家用機を持つまでに至ったのは、Rambusのストックオプションを持っていたからだ。もともと市場価格より若干安い優待価格で自社株を購入できるストックオプションだが、もらった後で市場価格が上がれば上がるほど、優待価格との差が開いてもうけが大きくなる。 そしてRambus株は2000年初めにIntelがRDRAM導入を発表すると急上昇。そのためアブラムソン氏のオプションは2000年6月には時価換算500万ドルに達していた。これでもう一生遊んでいける、そう皮算用したアブラムソン氏はオプションを行使して自社株を購入し、Rambusを退社した。 ところが彼は人生最大の失敗を犯した。株をすぐ売らなかったのだ。 Rambusの株価推移を見ると、アブラムソン氏が退社した6月に1株103ドルだった同社株は急勾配で下落、01年7月以降は6~8ドルに貼り付いた。退社時500万ドルだったはずの株は、1年で35万ドル程度にしぼんだわけだ。 しかし彼の悲劇はそれで終わらなかった。 アブラムソン氏が持っていたインセンティブ・ストックオプションというオプションには、AMT(代替ミニマム税)と呼ばれる特殊な税がかかっていた。これは簡単にいうと、オプションを行使して株を購入すると、そのときの市場価格と購入価格の差額で計算した税を払う義務が生じるものだ。そのため、彼は価格の下がった持ち株を全部売っても遠く達しない額の税金を背負うはめになってしまった。 アブラムソン氏は遺書を残さなかった。でも、その死の原因は、友人を含め誰の目にも明らかだった--彼はストックオプションのせいで死んだのだ。 彼はストックオプションのせいで、いったん大金持ちの夢を見せられたあと逆に借金を負わされたために、天国から地獄に落とされた。だからこそ、“3軒に1軒の家庭がストックオプションを持つ”と言われたシリコンバレーでは、アブラムソン氏の死が他人事と思えなかったのだ。彼ほど劇的でなかったとしても、誰もがペーパーミリオネアからの転落を味わっていたからだ。 ●ストックオプションの夢の崩壊と、それが招くもの 彼の死は、ハイテクワーカーたちがストックオプションに対して持っていた夢が崩壊したことの象徴だった。そして、ストックオプションの崩壊が意味するものは米国のハイテク産業成長の崩壊だ。ストックオプションにかける夢こそが、米ハイテク産業に人を集め、しゃにむに働かせ、同産業の驚異的成長を支えてきたからだ。 今はまだ、ストックオプション制度は生きながらえている。社員にまだオプションへの夢の残滓があり、企業も与えたがっているからだ。でも、その状況が今変わろうとしている。もうすぐストックオプションは崩壊しきってしまい、米ハイテク産業の成長は止まるかもしれない。
●ストックオプションの5つの魅力 米ハイテク産業は、もともと企業の業績に責任を持つ重役へのボーナスだったストックオプションを、広く一般社員にまで配る、「ブロードベースド」の制度に変えた。それは、ストックオプションには次の5つの魅力があったからだ。
注目したいのは、[5]以外のストックオプションの魅力はすべて、株価の右肩上がりが続くことが前提だったことだ。今から見れば、それはとてつもなくバブリーなことだった。 でも、株価が上がったのも、米ハイテク産業が急成長できたのも、このストックオプションの5つの魅力のためだったのも、また事実だ。 なぜなら、一攫千金を夢見る優秀な人材が猛烈な働きを見せることで、企業の業績や将来性への期待が上がり、それによって株価が上がり、企業は新しい投資資金を得ることができたからだ。そして投資できることによって企業の業績や将来性への期待はますます上がり、そのために一攫千金の夢が膨らんで社員がますますよく集まり働く、というスパイラル効果が働いたからだ。 このように、株価とストックオプションは両輪となって、米ハイテク産業の高速回転を支えてきた。 (*1) 企業が“とりあえずは”現金がなくてもよいと書いたのは、社員が取得した株を市場に売るようになると、現金が必要になってくるからだ。社員が株を放出すると、市中の株式量が増え、“株の希薄化”が起きる。希薄化は株価を押し下げるので、企業はそれを避けるため、定期的に市場価格で株を買い戻す必要が生じる。それでも、買い戻しの現金がいるのは上場した後の話なので、まずスタートダッシュが大事だった新興ドットコムにとって、[2]の魅力は大きかった。 ●株価破綻でオプションの魅力も破綻…だが生き延びた でももちろん、速く回りすぎた片方の輪が、ある日、吹っ飛んだ。 投機的期待がかかりすぎた多くの米ハイテク企業の株価は、2000年3月以降、坂を転落。2002年以降は今も、2000年以前に比べるとはるかに低いところを低迷し続けている。 こうなると、社員は一攫千金ができないどころか、人によってはオプションによる購入価格より株価が下がり、オプションを行使しても儲けられないどころか損するだけという、「アンダーウォーター現象」を体験するまでになってしまった。損益分岐の水準線より下に、オプションが潜るまでになってしまったわけだ。 つまり先に書いたストックオプションの魅力のセオリーは、破綻してもう約3年が経つ。だが、その割には、ストックオプションがこれまで生きながらえてきたのはなぜだろう? それはたぶん、負けているときこそバクチをやめられないバクチ打ちの気持ちを、企業が利用できたからだ。 「この損をせめて少しだけでも埋め合わせない限り、やめられない」、「あんなに高かったときもあるんだから、今よりせめてもう少し上がるかも」、「ほかはどうであれ、自分の会社だけは上がることがあるかも」。 社員がそういう気持ちを捨てきれない間は、企業にとってストックオプションにはまだ利用価値があったのだ。 利用価値を見取って、余力のある企業がリプライシングなどの救済措置をとってきたことも、ストックオプションの延命につながった。企業が、リプライシングつまり再値付けによって、以前発行したオプションの株購入価格を下げてやると、社員は安くなった市場価格で株を売っても、少しは儲けられるようになる。
でもそういう延命策をしても、ストックオプションは、もうさすがに限界かもしれない。そう考える理由は3つある。 ●小さくなったプラス面 第一に、リプライシングなどの対策をとったところで、ゆるい上がり下がりが続く市況では、基本的に、ストックオプションは社員にとって魅力が小さい。 自社の株価の小さな値動きに一喜一憂する、夢のしぼんだ生活が長引けば、強気のバクチ打ち社員もさすがにあきらめて、がむしゃらに働けなくなるだろう。ストックオプション行使の条件を満たすために会社にいつづける根性や、ストックオプションのよさで会社を選んで入社するという気も失せるだろう。バブル崩壊から3年経てば、もうそういう時期だ。 ●大きくなったマイナス面 第二の理由は、プラスの魅力が少なくなったため、社員にとってのマイナス面が大きく見えるようになったことだ。ストックオプションは実際にお金を手にできるまでに時間がかかることが多く、株価が不安定な場合、オプション行使のタイミングを図るのが難しい。書類処理も複雑だ。 借金地獄に落ちたアブラムソン氏の例が示すように、オプションは税金との関係で、株価からだけではオプションの行使時を決められない。アブラムソン氏が株をすぐ売らなかったのは、1年間株を持っていれば、売ったときの利益に対して高率の所得税でなく、低率の長期キャピタルゲイン税を払えるようになるからで、節税のためだった。ある意味合理的な行為だったわけだが、1年後の株価を読まなければならないため、リスクがある。 しかもアブラムソン氏のように、持っているオプションの種類がAMTがかかるインセンティブ・ストックオプションだと、さらにリスクが増す。AMTは、2000年から2001年へというように、年をまたいで株を持っているとかかる税で、株を売ったときの実際の儲けでなく買ったときの市場価格で税額を計算する。そのため、長期キャピタルゲイン税をねらって株を持っている間に株価が下がると、アブラムソン氏のように、税のほうが株の売却益より多くなることがある。 2001~2002年の報道を見ると、シリコンバレーでは、AMTで破産したとか仕方なく家を売ったとかいう人が続出し、AMT制度改正運動ロビー団体のメンバーが2,000人を数えるというほど、切実な問題となった。しかしハイテク業界の外では、ギャンブルをした者が負けて損をしても救済はできないという論調が強く、AMTは当分、改正されそうにない。 AMTがかかるタイプのオプションを持つ人はハイテク産業でも比較的少ないとされる。だがAMTの問題がなくてもやはり、ストックオプションは現金と比べ、不安な要素が多い。 ●経費算入が義務づけられる? 第三が、ストックオプションの致命傷となるかもしれない理由だ。唯一、右上がり株価に依存しなかった、経費を小さく見せられるという経理上の魅力が消えるかもしれない。 この3月、ストックオプションを企業に経費として計上させる案を、政府のFinancial Accounting Standards Board(FASB/財務会計基準委員会)が検討することが正式に決まった。 現在ストックオプションは、どれだけ発行しても、損益計算書に脚注として記すだけでかまわない。そのため現金の給料を多く出した場合より人件費を小さく見せ、結果的に利益を大きく見せることができる。例えば報道(「Intel projects effect ofexpensing options」San Jose Mercury News, 3/12/2003)によれば、Intelは2002年の利益は31億2,000万ドルだったが、もし社員向けのストックオプションを経費算入した場合、19億5,000万ドルになっていたという。つまり19億5,000万ドルの利益を1.6倍に見せていたとも言えるわけだ。 だが、株価の低迷後、この経理システムを年金基金などの大口投資家が批判し、企業の利益を正しく判断するには、ストックオプションを経費算入すべきだと要求し始めた。昨年、Enronなど一部の破綻企業で、多額のオプションをもらっていたトップらが株価破綻前に売り抜けたスキャンダルも、批判に拍車をかけた。このため、ハイテク企業団体が熱心に反対のロビー活動をしたにもかかわらず、FASBは経費算入案を論議することを決定。結論が出るのは年末だが、この経緯を見ると論議は算入に傾くようにも見える。 算入案が通ると、利益が減って見えるのを嫌い、企業はこれまでのようなストックオプションの大盤振る舞いをしなくなると言われている。 ●ブロードベースド・ストックオプションは減少中 このように、社員の間での人気も企業にとってのメリットも減る中、中間管理職を含む一般社員に振り出されるブロードベースド・ストックオプションの量は実際に減っているようだ。例えばシリコンバレーの中心地サンタクララ郡では2000年には3分の1の家庭がストックオプションを持っていたが2002年には4分の1の家庭に減ったという(「Stock options slow after dot-com bust」San Jose Mercury News, 12/12/2002)。
つまり、ストックオプションの制度は、今年末から来年中にはすっかり崩壊するかもしれない。すると、米ハイテク産業は、安いコストで人を惹きつけたり、縛り付けたり、セッセと働かせたりできなくなる。なにしろ、ストックオプションほど都合のよいものの代わりはちょっと見つかりそうにない。 すると、優秀で熱心で低コストな労働力を求めて業務の国外移転が増え、米国のハイテク産業は空洞化。台湾やインドがハイテク産業の中心になることもあるかもしれない。あるいは、米ハイテク業界の活力が衰えることで、世界のハイテク産業自体が衰えるかもしれない。 ●まだ続いている延命作戦 もっとも、ストックオプションの崩壊と米ハイテク産業の崩壊が食い止められる可能性はまだある。例えば経費算入は、一般社員へのオプションではなく、トップの重役連の分だけにせよという主張している人々がいる。これは経理上のコスト増大をマイルドにするための方策だろう。また、経費算入しても、株価への影響は少ないだろうと見るエコノミストもいる。情報は前から損益計算書の脚注という形で開示されているのだから、投資家はそんなにショックを受けない、というわけだ。この意見が正しければ、経理上の理由からストックオプションをやめる必要はなくなる。 だが経理がどうなろうと、ストックオプションの行方の本当のカギは、株価が握っている。株価の右肩上がりがしばらく続けば、オプションへの社員のデマンドが復活するからだ。そして、株価の先行きは専門家でさえしょっちゅうはずすくらい、予想が難しい。イラク戦争の勝利でハイテク産業全体の株価は多少刺激されたようだが、それがいつまで続くか。見通しは甘くないだろう。ということは、ハイテク産業の行方も、厳しいかもしれない。
(2003年5月1日) [Text by 後藤貴子]
【PC Watchホームページ】 |
|