初めてMacを使ったとき、フロッピーディスクをイジェクトする方法がわからず、途方に暮れた覚えがある。何しろ、ドライブにはイジェクトボタンがなかったのである。仕方がなく、Macユーザーの知り合いに電話して、ゴミ箱へのドラッグすればいいことを知った。捨てることと吐き出すことがなぜ、同じユーザーインターフェイスなのかに理不尽な思いをした。苦い経験だ。 ●はじめてのアップル 初めて使ったMacは、「Macintosh Plus」だったと思う。だから、1986年頃のことだったはずだ。アウトラインプロセッサに関して雑誌の記事を書くために貸し出されたMacが、1カ月くらい自分の部屋においてあった。編集部からの貸出機で、マニュアルは同梱されていなかった。 その当時、メインに使っていたパソコンはNECの「PC-9801VM2」だった。HDDも20MB程度のものを外付けしていたはずだ。MS-DOS 3.1で、ジャストシステムの「一太郎Ver.2」(新・一太郎)を動かして原稿を書いていたし、日本語入力は複合連文節変換で二文節最長一致法を搭載した「ATOK5」だった。このあたりの時系列に関する記憶がちょっと定かではないのだが、もしかしたら、HDDではなく、メモリをRAMディスクにして運用していたかもしれない。 いずれにしても、フロッピーディスクだけで運用しなければならないMacとの比較は、とても公平とはいえなかった。そういう事情もあって、そのときは、Macに対して良い印象を覚えることもなく、そのままになってしまっていた。 デスクトップ検索について、いろいろ調べているうちに、やはり、Macが「Mac OS X "Tiger"」に搭載された話題の検索エンジンである「Spotlight」についても見ておこういう気になり、ほぼ20年ぶりに、Macを使ってみることにした。 当時とまどったイジェクトは、ゴミ箱へのドラッグというユーザーインターフェイスは変わってはいないが、CD-ROMのドラッグ中は、ゴミ箱マークがイジェクトマークに変わるように実装されていた。いや、何よりも、今、手元にあるPowerBook G4では、キーボードの右上にイジェクトキーが用意されている。ぼくには、こちらの方がカルチャーショックだ。 ●幕の内弁当状態はどこも同じ ひととおり、作業環境を整えようと、Windowsでの常用アプリケーションをインストールした。といっても、アドビの「Creative Suite 2」と「Microsoft Office:mac 2004」、そして、ジャストシステムの「ATOK17 for Mac OS X」、さらに、テキストエディタとしては、常用している「秀丸エディタ」は対応していないので、「Jedit X」をインストールした。そして、そのキー割り当てを、普段使っている秀丸と同じになるように設定した。 こうして、20年ぶりに使い始めたMacは、ちょっとしたところで戸惑うことはあるにせよ、今月は、Windowsを使わずに、Macだけで仕事をしろといわれても、特に不自由しないかもしれないと思うほどだったことに正直驚いた。 誤解を怖れずに書けば、よくできたWindowsという印象だ。しかも、ターミナルに降りれば、そこは、かつて使い慣れたUNIXだ。コマンドシェルのcshは自在に使えるし、テキストエディタはviがある。残念ながら2byteコードが使えないようだが、これは、別のtelnetユーティリティを調達すればなんとかなるだろう。いずれにしても、Windowsのコマンドプロンプトよりずっと快適な環境だ。 でも、Windowsのヘビーユーザーとしてここまできたぼくが違和感を感じないということは、古くからのMacユーザーは、もしかしたら、今のMacに、ちょっとした違和感を感じるようなこともあるのかもしれない。 いずれにしても、これで、無線LANクライアントとしてのAirMacがつながり、Bluetoothでデータ通信のための携帯電話と、操作用に調達した2ボタンマウスをペアリングし、インターネットとつながり、Safariでウェブをブラウズできるようになり、メールが読み書きできて、常用アプリケーションが普通に動くようになると、本当に不便を感じなくなってしまった。 さすがにぼくは、いくつかのアプリケーションを入れたけれど、ユーザーによっては、付属の「iLife」で十分だと思うかもしれない。iLife は、写真管理のiPhoto、動画編集の「iMovie HD」、DVDオーサリングソフトの「iDVD」、オーディオレコーディングソフトの「Garageband」などで構成された統合環境だが、これがMacにはついてくる。 きっと、今、メーカー製のWindowsパソコンを初めて購入するようなユーザーも、同様の気持ちで接しているのだろうと新鮮な気持ちで受け止めることができた。新たにソフトウェアを追加しようという気になりにくい状況は、Macでも事情は同じなようだ。 ●コモディティ化を阻止せよ しばらくMacに夢中になっていたら、Windowsがそれに気がついたのかどうか、コードネームLonghorn改め、「Windows Vista」が正式名称になったと発表され、この原稿を書いている今日、その開発者向けベータの配布が開始された。 ついさっき、そのインストール用CD-ROMイメージのダウンロードが完了したところだ。さっそく、評価用のハードウェアを調達しなければなるまい。ただし、今回のベータは、あくまでも開発者向けの評価用であり、記事のための評価はできないことになっているのが残念だ。 Windowsパソコンは、コモディティ化一直線の傾向にあるが、Windows Vistaが、それに歯止めをかけることができるかどうかは、ぼくにとって重要なテーマだ。というのも、パーソナルコンピュータは、もっともっとパーソナルなものであるべきだと思うからだ。 今、Intel、そして、パソコンメーカー各社は、コンシューマー向けパソコンのマーケティング戦略として、『ホーム』や『ファミリー』を強く打ち出しているのはご存じの通りだ。リビングネットワーク、ファミリーパソコン、デジタルホームなどなど、その形態はいろいろだが、個人的には、これはちょっと違うんじゃないかと思う。 冷蔵庫や掃除機を複数台所有する家庭がそれほど多くはないように、この路線のマーケティングが続くと、パソコンは一家に1台でいいのだと消費者に思われてしまうのではないかと、ちょっと心配になる。 一家に1台の固定電話がユーティリティになってしまい、電話といえば、普通は携帯電話を使うようになったのは、携帯電話がとてもパーソナルなものとして、マーケティングされたからだ。だからこそ、携帯電話には、今も、遊び心にあふれる機能が追加インプリメントされ、ますます楽しく便利になっていくし、それは暮らしを豊かにする。本当は、パソコンもそうなりたかったのだろう。だから、その方向を見失ってはならないし、あきらめないでほしい。 不思議とMacには、ホーム色やファミリー色が希薄だ。その違いはいったいどこにあるのか。そして、Vistaはそれを払拭してくれるのだろうか。 □関連記事
(2005年7月29日)
[Reported by 山田祥平]
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